其の39 弦


 出勤は昼からである。昼であるから大体の店は開いているのだが、いつもタイムカードをがっちゃんと入れる為に慌てているので立ち寄れないことが多い。唯一立ち寄るのが所謂焼きたてのパンを謳っているパン屋である。しかし時間帯のせいかいつ行っても焼きたてであることなく、パンを並べてあるトレイに味噌っかすのように売れ残っているパンを手に持ったトレイに乗せることになる。わたしは慈悲深い性格であるのであと一つ残っているパンをみると、可哀想にとついつい買ってしまい後悔することになるのだが、そういうことをここで言いたいわけではないのである。
 今日はたまたま出勤まで間があったので職場の近くの本屋に立ち寄ってみた。それほど大きな書店ではないのだが、意外に品数が多く、ちょっとした本を購入したいときにはなかなか便利であるので、忙しくて休みが取れないときなどに利用することが多い。まずは新刊などをぶらりと眺めていたのだが、ふと思い出して音楽雑誌などがあるコーナーへと向かってみた。先にも書いたが最近ギターを買った為にギター雑誌なぞを購入してみる気になったのである。高校生の頃はよく買っていたのが、最近は御無沙汰である。手にとってみると十年ほど経つのにもかかわらず相も変わらず同じ様な記事であるのに驚く。コード進行や譜面があって、新品ギターの紹介なんかが載っている。まあこういう雑誌は一年も買うと同じ内容の記事にうんざりしてきて買うのを止めることになるのだが、未だにそれで商売が成り立っている所をみるとギターを弾いている人間は鈍感であるのか、それとも新規購入者が多いのかもしれない。ギター雑誌付近にある雑誌を色々手にとってみていると、ふと気になる雑誌が目に留まった。
 月刊「弦」
 初めてみる雑誌である。「弦」という雑誌名と雑誌のある場所から考えると、どうもギター雑誌臭い。そこで手に取ってみた。表紙は地味でこげ茶色のバックに金色の弦が数本縦に並べてあるだけで、雑誌名のみが白抜きでかかれている。一ページ目をめくるとそこには目次があった。
P3  特集「東原名人に学ぶ弦職人の心意気」
P30  コラム三弦
    市原光太郎「恍惚の光」
    千本はじめ「指先になじむ」
    幸田六男 「七本目の弦」
P53  店長のお薦め 高田馬場 弦ショップ「武富士」より
 などいった目次であった。これはギターがどうのという雑誌ではなく、ただただ弦のみにこだわった雑誌なのである。であるからギター弦についての記事も載っているし三味線や蛇味線とかベース、バイオリン、そういった弦楽器に使われる弦について語られる雑誌であるのである。わたしはこういった専門誌というか購買層が極端に狭い雑誌を読むのを好む為、獲物を見つけた肉食獣の如くレジへと向かい、千九百八十円という雑誌にしてはかなり高い出費であったが、購入したのである。
 仕事場に着き、食事をしながらゆっくりと月刊「弦」を開けてみる。まず特集を読んでみる。特集の最初のページには眼鏡をかけた七十歳は過ぎたと思われる老人が懸命に熱く焼けた鉄弦を打ち付けている写真があった。記事はこの名人東原光太夫へのインタービューで構成されている。
「……ということは最初に弦作りをはじめようとされたきっかけは戦時中の学徒動員だったのですね」
「うーん、まあそういうことになるわな。あの工場へいかなんだら弦てこないしてできるゆうこと知らんままいっとたからの」
「なるほど。そこで弦に魅せられたと(笑)」
「それもあるわな。だけんど、それよりわたしの師匠の塚元先生もおんなじ工場で働いとったことも大きいわ」
「ああ、塚元名人ですね。やはりそこでの出会いがより弦作りに熱中される大きな原因だったと」
「そうだわな。先生はやっぱ凄か人だったからのう。魂込めて弦を作りなさる姿に感動したのは今でも忘れられん」
(中略)
「それで最後に今気になることはなんでしょうか」
「うーん、息子の弦一郎が後をついでくれんことかのう」
 こんな所でも職人の跡継ぎ問題が語られたりもしているのである。深いのか浅いのか解らないインタビューである。そして次にコラムを読んでみた。中でも市原光太郎の「恍惚の光」が凄かった。出だしが凄い。
 >やはり弦というのは見て楽しむ。そして触って楽しむ。そこまでで完結する芸術である。弾こうとするなどはもっての他である。
 え、弾いちゃあいけないのか。弦というものは。この人はこの雑誌の中でも最も過激で楽器とは弦の付属物であって、なくても構わない、むしろ「弦を楽しむ」為には不要であるという立場の人なのである。しかし弦を楽しむっていわれてもねえ。メロディーを奏でるなどというのはいけないらしい。「弦を楽しむ」為には。唯一音を出していいのはハーモニクスの時だけのようである。ハーモニクスというのは弦の二分の一、三分の一、四分の一といったところを触れて弦を弾くと、その弦のオクターブ上の音がでる現象である。著者の紹介を見てみると数学者とあった。もしかするとピタゴラスの末裔なのかもしれない。
 後半にはやはり読者投稿欄があった。結構紹介されている。
「ちわ、いつも楽しみに読んでいます。弦のねじれについてですが、以前榊原名人の話で『弦に三回半ねじりを入れると良い』とありましたが、三回まではいいのですが、あと半分というのが難しいですね。やっぱりコツがあるんでしょうか」
「弦の価格ですが、斉藤先生の備中金弦国光六本揃いを知人から譲ってもらうことになっています。どれくらいのお礼をしたらよいものでしょうか。市場価格では六万円程ですが、細弦の先が少し削れているのが気になってお礼の金額に悩んでいます。よきアドバイスを」
「弦ショップでバイトしていた彼女ととうとう結婚することになりました。この雑誌を見て行った店なので感謝しております。将来は二人で弦ショップを開きたいなあなどと語っています」
 いやはやもうここまでいけば常人には立ち入れない世界であるが、非常に面白い。この雑誌、音楽之友出版より千九百八十円(税込み)で全国書店で販売されている。買いである。
 しかし弦て職人が作るものだったのか、非常に勉強になる雑誌であった。


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