其の67 田中さん


「御存知ですよね」
 そう話しかけてきたのは四十代とおぼしき女性であった。たまたま所用があって、普段は利用しない駅で電車を待っていたわたしにその女性は話しかけてきたのである。わたしのような若造に妙に丁寧な物言いで話しかけるのは大体においてセールスか宗教の勧誘か寄付金集めの人くらいなのだが、それらの人はまず初対面であるという態度で接してくるものである。ところが「御存知ですよね」だ。どこかで会った人か。失礼があってはならぬ。
 はあ、などと一応返事をしたのであるが、やはり一向にその女性が誰か解らないのである。たしかにわたしは人の顔を覚えられないことにかけては誰にも負けぬという自信があるのだが、それでも会ったかどうかまで解らないというのはそうそうあるものではない。取り敢えず会釈でもして立ち去るのが賢明だろう、そう考えて爽やかというには程遠い笑顔を保ちながら歩きだした。
「いやですわ。久しぶりなのに」にやっと笑いながらその女性はわたしの側を離れず付いて来るのである。あら、もしかしたら近所のおばさんか、こんな所で会うことはまずないから忘れていたのか、と考えてみたが、こう親しげに話しかけてくる人は限られてくる。勿論名前を忘れても顔を忘れるはずもない。仕方ない。恥を承知で訊ねてみるか。
「すいません、どちらさまでしたでしょうか」
 あら、びっくり、そういった顔でわたしの方を見て、そしてその女性は微笑んだ。
「御存知の者です」
 その笑顔とは裏腹に妙に冷ややかな口調で言いきった。御存知の者ですと言われてもねえ。知らないから訊いたんぢゃないか。
「申し訳ありません。何処かで御会いしましたでしょうか」
 間髪入れずその女性は言った。
「田中です」
 田中田中と呪文のように頭の中で反芻してみたが、田中という名前で四十代の女性を思い付かない。
「ほんと申し訳ないです。どこの田中さんでしょうか」
「またまた。揶揄っているんでしょう」
「いえ、ほんとに思い出せないんです。申し訳ないんですが」
 困ったことになってしまった。本当に知らないのだ。田中さんと言われても一向に思い出す気配もない。仕事での取引先の人だったりすると困ったことになるかもしれない。焦ってくる。
「そう、思い出せないの。どうしてかなあ」
「ああ、すいません。どちらの田中さんでしたでしょうか」
「絶対知ってると思うんだけど」
「申し訳ないです。ど忘れしたみたいです」
「あ、そう。まあいいわ。で、何してたの」
「え、ええ、まあ。仕事の途中なんですが」
「へえ。頑張ってるのねえ」
「まあ。で、教えてもらえませんか、どちらの田中さんでしたか」
「ほんとに忘れたの、いい加減にしてよ」
 目は釣り上がりわたしの方をきっと睨みつけてくる。とうとう怒らせてしまったようだ。
「わたしの名前は田中です」
「あの、それはさっきから聞いているので解ってますが」
「田中と言ったら解るでしょ。田中よ、田中」
「ですからどちらの田中さんですか」
「なんで知らないの、あなたおかしい」
「おかしいって言われても思い出せないものは仕方ないでしょ」
「普通の人は知ってるわよ。橋本さんも、工藤さんもわたしのこと知ってるわよ」
「そ、その橋本さんとか工藤さんって誰なんですか」
「橋本さんも工藤さんも知らないの、変よ、あなた変」
 次第に声が大きくなってくる。周りもちょっと様子が変だということに気付きだした。
「では、わたしとあなたは何処であったのですか、いい加減教えてくださいよ」
「あなたそこの弁当屋さんで、弁当買ってたじゃない」
「たしかに買ってましたけど」
「そこで焼肉弁当の大盛り頼んでたじゃない」
「そうですけど、どうして知ってるんですか」
「……後ろで並んでたから……」
 ぷつぷつと鳥肌がたつのを感じた。後ろに並んでたって。まったくの他人ではないか。
「じゃあ、わたしと会ったって、その弁当屋でなんですか」
「そうよ。当たり前じゃない。それなのに何で知らないのようう」
 その中年の女性の目は怒りに震えていたのだが、じわりじわりと涙目になってきた。
「普通知ってるわよ。わたしのこと、ねえ」
 そういうと彼女は電車を待っているサラリーマンに方へ駆け寄った。
「ねえ、知ってるわよね」そしてまた別の中年のサラリーマンの方へ駆け寄る。
「ねえ、田中です」「ねえ、知ってるでしょう」「ねえ、御存知の者ですよ」
 次第に田中さんは遠ざかっていった。


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