其の80 踊り喰い


 ここで雑文などを書いていると、これまでかいてきた恥を誰にも頼まれていないのに顕していることに気付いて目の前が真っ暗になることがあるが、却って今更一つ恥が増えたところで所詮は駄目人間なんだから、という開き直りも生じてくる。ということでつい最近まで「踊り喰い」というのは踊りながら飯を喰うことだと思っていた。真相を知った今となっては如何なる思考でもって「踊り喰い」というものが踊りながら飯を喰うことだと考えていたのか解らぬのであるが、しかしそう考えて生きてきたのは事実である。「踊り喰い」とは「踊りながら喰う」のだと考えながらロックとは何かと苦悩したり、「踊り喰い」とは「ラララー、レッツダンシング! バクバクバク、うまいっす」などということだと信じながら、愛とは何か、真善美とは何か、人間如何にして生きてゆくべきかなどということを考えてきたのである。まったくいい年こいて恥ずかしいものである。
 これまで「食」というものに興味をもっていないものだから「踊り喰って」みたいなどということを考えたことがなかった。これが真実を遠ざけていた要因の一つであろう。食い物に少しでも興味を持っていたならば子供の頃にでも「ねえ、踊りくってみたいよう、ええんええん」などと駄々をこねて、結果「踊り喰い」の意味を知ることになっていたことであろう。もしくは自己流で踊り喰っているところを知人にでも見られたとしたら、「何やってんだ」という冷たい一言で「踊り喰い」の意味を知ることになっていたはずである。ところが食べ物に関して無頓着であり、そして味に五月蝿くないものだからそういう欲求は一度もおこらなかった。腹に入れば何でもいいという面があるのである。それでも何処かで一度くらい「踊り喰い」について真剣に考えてみる機会があってもよさそうなものであるが、幼少の頃より、誕生日だからカレー、クリスマスだからカレー、おせちもいいけどカレーもね、で育ってきたものだから考えなかったのも当然と言えば当然である。
 あと言葉に対して妙な類推が働かせすぎたのもよくなかったのかもしれない。「犬喰い」という言葉がある。これは茶碗などを手にせず、箸なども使わずに直截口に食べ物を運ぶ喰い方である。両親の躾で「そんな犬喰いをするんぢゃない」と厳しく叱られたことによって意味を知るに至ったのであるが、これより「犬喰い」というのは「犬のような喰い方」であるというように諒解した。そこで踏みとどまれば良かったのであるが、その用法を拡大させて「踊り喰い」を「踊るように喰う方法」、つまり「踊りながらの食事」であると勘違いして覚えてしまっていたのである。また「牛喰い」という言葉もあって、これは「犬喰い」的用法があらゆる「喰い」に応用できるという有力な傍証となるものである。「牛食い」は上記の言葉の理解に従えば「牛のように喰う」である。牛というものは反芻する。一旦胃に入れた食物を適宜口へと戻してもう一度咀嚼するのが反芻であるから、やはり「牛喰い」というのは食べ過ぎなどによって胃から込み上げてくる喰ったものを再び咀嚼して胃へと戻す喰い方だと考えることが出来る。この理解は大体のところ間違ってはいない。こういった「牛喰い」のような「犬喰い」の応用もあるのだから万事「犬喰い」方式で考えれば良い、そう思うのも致し方ないようにも思える。
 しかしこの用法でゆけば「面食い」は「面のように喰う」こととなって意味が通じなくなる。無理に「面」というものを祭りなどで売っているアンパンマンなどの「お面」のことだととれば、「お面をつけながら食事をすること」の意味になってしまうが、流石に本来の意味の「顔の美醜に拘わる人」という意味は知っている。このあたりで「踊り喰い」は「犬喰い」用法が使えないと気付くべきであったのかもしれないが、「踊り喰い」は「食」に関するものだという基本的な考えはあったものだから、そこまで考えが及ばなかったのであろう。それに「面食い」の「面」は物であるので、物の様に喰うというイメージも難しい。それで「犬喰い」まで遡って考えなかったのであろう。
 あと「踊り喰い」の「喰い」という響きから今でこそやや下品な言葉のように受け止めているが、かつては「踊り」の方に重点を置いていたのでどちらかというと上品な、伝統的な演舞的な響きを感じていた。「踊り喰い」の幅は広い。日本舞踊から、ジャズダンス、前衛舞踏までを含む「踊り」をしながらの食事である。勿論自己流の踊りも含まれるのだから自然に体が動いての「踊り喰い」も許される、そう漠然と考えてきた。ただわたし自身の考えでゆけば、この「踊り喰い」の「踊り」は、美しく食事を楽しむ為の踊りでなければならず、箸を優雅に動かす伝統的な舞踏であるべきだということになる。つまり素人の「踊り喰い」は見苦しいものだと考えてきたのである。するとわたし自身の美意識故、「踊り喰い」をすることはなくなり、そして他人からそれが間違っていることを指摘されることもなく、結果「踊り喰い」とは何かということを知らないまま人生を送ることになってしまったのである。
 しかし冷静に考えてみると可笑しい。踊りながら食事をするのは非常に難しいはずではないか。激しい踊りであるならば横っ腹が痛くなることもあるだろうし、フラメンコをしながらの「踊り喰い」なんて口に食べ物を運べるかどうか疑問である。そしてカスタネットを叩きながらの食事は間抜けだ。そんなものが「踊り食い」であるわけがないのである。やはり「踊り喰い」とは「踊らせ喰い」であろう。日本庭園を前にゆったりと懐石料理などに舌鼓をうつ。遠くの方からは添水の音も聞こえる。そこへ美しい和服の女性が部屋に入って来る。そして彼女らは踊るのである。見とれて箸が止まる程の美しい舞踊に囲まれ一層料理の彩りが映える。これこそ「踊り喰い」すなわち「踊らせながらの食事」である。これまで「踊り喰い」に興味はなかったが、こういう「踊り喰い」なら悪くはない。いつの日か、金銭的な余裕がうまれたら一度味わってみたいものである。「踊り喰い」を。あと「白魚の踊り喰い」というものが存在するらしいがこれは「白魚」を水槽の中で「泳がせる」=「踊り」と考えての「踊り喰い」だろうか。これも一度観賞してみたいものである。


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