其の92 伝統


 近所にある中華料理屋は深夜でも営業しているのだが、以前行ったとき異様に不味かったように思えたので近場であるにもかかわらず、そしてわたしの生活時間にぴったりであるにもかかわらず行くことはなかったのであるが、先日何の考えもなくふらふらとその店に入ってしまった。わたしの食生活はこれまで秘密にしていたが概ねカレーを喰うことが多い。そして次に多いのが中華である。大体何を喰おうかという段になるとまずはカレーに前大会優勝者として決勝戦から登場という特別シード権が与えられており、そして中華にはパスタやステーキやとんかつといった強豪を相手に接戦の末勝ちあがってきた挑戦者といった観があり、最終戦でカレーと闘うことが多く、コーヒーに対する紅茶、シーザーに対するブルータス、フェンダーに対するレスポール、ウルトラマンに対するゼットン、ジョンに対するポール、ポールに対するジョージ、ジョージに対するジョージ・マーチン、ジョージ・マーチンに対するスチュワート・サトクリフ、スチュワート・サトクリフに対するブライアン・エプスタイン、ブライアン・エプスタインに対するアラン・ウィリアムズ、アラン・ウィリアムズに対するピート・ベスト、ピート・ベストに対するリンゴ・スター、リンゴに対するずーとるびといった存在なのである。勝率はカレーの方が七対三で勝っているものの、その戦いぶりは見るものを飽きさせず、王者カレーに相応しい挑戦者としてあだや疎かには出来ない存在なのである。中華というのは。
 そういった中華料理だから幾らその店が不味かったのではという記憶があろうともついふらふらと足を踏みいれてしまったのである。しかしである。わたしの記憶は正しくて以前感じたような不快感を伴う不味さなのであった。「うう、不味い、もう一杯」という青汁のコマーシャルがあったが、そのときのわたしの顔はまさにそれであった。どれくらい不味いかを表現しようと思うのだがちょっと思い付かない、それくらい不味いのである。美味さについての言葉は色々と思い付くのであるが、例えばそれは「インディのカレーが若干霞んでしまうくらいに美味い」だとか「インディのカツカレーが何となく普段より少ないような気がするときに比べると美味い」だとか「ハヤシライスだと思って喰ってみるとカレーだったときよりも美味い」だとか、それは種々様々なのであるが、この店の不味さを表現する言葉が思い付かない。只々その不味い料理の有り様を忠実に描写するのみである。まず炒飯を頼むと油でべとべとである。少し器を傾けてみると縁に油が垂れてくるくらい油を使っている。炒飯というより飯の油漬けである。また餃子はといえばこれまた油が滴る程油っぽいのである。その癖皮が妙にカリカリしていてクリスピーである。餃子がクリスピーだというのも問題であるし、具も少ない。これでは揚げワンタンのようである。また鶏の空揚げもやはり油でべとべとであるのだが、何故か塩が大量に振り掛けられているのである。これほどまでに不味い中華料理屋も珍しいのだが、こういった店であってもそれなりに繁盛していてその上常連客らしき人物も多数存在しているのである。不思議である。
 店主と和やかに会話を楽しむ常連客と思しき人物が四五名、そしてわたしのように仕事帰りのサラリーマンが二名、そしてカップルが一組。深夜一時としては中々の盛況である。しかしわたしのように料理を前に苦悩している客は一人としていない。美味いっす、美味いわよん、うーん最高、キャー、おいしいわよん、うりゃあ、バクバク、ハフハフなどという客はいないものの、各自それなりに食事を楽しんでいるようにも思える。わたしだけなのか。この料理屋の存在について真剣に苦悩しているのは。店主は楽しそうに常連客達と会話しているし。常識的な線で考えれば不味い料理屋というものは繁盛することがないはずである。誰だって金を出してまで苦痛を得ようとは思わないだろうし、別に深夜だからといって他に料理屋がないわけではない。非常に不思議なのである。
 クリスピー餃子を箸で転がしていると、実はその料理は美味いのではないかという疑念が沸いてきた。他の客とわたしの反応の違いを考えるとわたしの味覚がおかしいかもしれないのでは、このことをまず疑ってかかるのが理性的な考え方であろう。確かにわたしは味覚に関して自信がない。譬えば将来「料理の鉄人」といった料理番組に出演したとしよう。その日はフランス料理勝負で食材はフォアグラである。双方の料理人も凝りに凝った料理をわたしの前に運ぶ。口にしてみると何と言えば良いか解らないほど美味い。こんな料理初めてだ。そこでわたしが思わず声に出すだろう言葉は「あの、ライスはまだですか」である。多分。これくらいの味覚であるからしてそこの中華料理屋が美味いか不味いかの判断を下す資格はないのかもしれないのであるが、それでも不味いと感じていることは確かで、この気持ちに偽りはない。我思う故に不味いである。これだけは譲れない。
 などということを考えながら、やっとの思いで店を後にしたのがつい先日のことである。しかしわたしはしつこい。それとも忘れっぽいのか。なんだかよく解らないが今日も店に入ってしまった。多分、面倒くさかったのだろう。コンビニエントストアに行き、「きょうぉの、おかずは、なあにかな」などと口ずさみながら軽いステップを踏む元気がなかったのかもしれない。不味いのは重々承知していたのだが、ふらふらと店内に入ってしまったのである。
「らっしゃい」
 と声を掛けたのは先日の主人ではなかった。年の頃なら二十代といったところか。わたしとそう変わらない若者であった。店主は何処かへ行ったのか休憩しているのか解らないが見当たらない。チャンスかもしれない。これまでこの店で食した料理は全て店主の手によるものだ。店主は結構年をとっていたから、もはや彼の作る料理は完成されているのだろう。そしてあの料理を平気で「あつあつのうちに食べてね」と手渡すからにはその料理に余程の自信を持っているにちがいあるまい。つまり味覚がおかしいのである。少なくともわたしとは相容れない味覚の持ち主なのだろう。しかし今日は違うのだ。あの若者はちょっと頭が足りなさそうな話し方ではあるが、少なくとも店主よりもまともな料理を作ってくれるはずだ。店主の料理を再現することは至難の技だと思われる程の不味さなのだから譬えその若者が素人だったとしてもまあ食えるはずである。
 わたしの注文を聞き終えた亮太くん(仮)は威勢よく中華鍋にむかいわたしの炒飯を作るべく用意し始めた。油をひき、そして熱せられた中華鍋に溶き卵をかける。よしよし、今のところは完璧だ。野菜を刻んだものや肉類を入れかき混ぜる。ほんのりと玉ねぎの香りが漂う。そしてボウルに取り分けた飯を入れる。カッ、カッという勢いのある音がする。程よく焼けた飯が宙に舞う。う、上手いぞ! 亮太! そして亮太が出来上がった炒飯を皿に取り分けようとした瞬間である。
「こらっ、油が足りーん」
 いつの間にか亮太の隣に店主がいて、亮太が炒飯を作るのを見ていたのであった。
「もっと油を入れんと、そんなのパサパサで食えんぢゃないか!」
「うぇいっす。油っすね」
「そうだ。炒飯はな、油が決め手なんだ。パサパサの飯ぢゃあ美味くも何ともないんだぞ、ねえ、お客さん」
 こ、こらわたしに振るんぢゃない。
「ほら、油の良い香りがしてきたろう。炒飯はこうでなくっちゃね。もっと入れろ、油を」
「うぇいっす」
 や、やめろ亮太。それぢゃ入れすぎだって。嗚呼嗚呼嗚呼、わたしの炒飯が、炒飯が。
「こんなもんすか」
「おお、そうだ。やれば出来るじゃないか。さ、早くお客さんにお出ししろ」
「うぇいっす。どうぞっす。あつあつのうちに食べて下さいっす」
 いつもと同じ味であった。途中までは上出来であった炒飯が喰うも無残ないつもの不味い炒飯に変わってしまっている。店主の腕は確かだ。いつでも同じ味を再現できるのである。
 歴史は夜作られるが、不味さの伝統も夜作られるのである。こうして店主の味は守られ、そして受け継がれてゆくのである。しかし亮太くんよ、わたしが見るところ君の腕は中々のものだと思うのだが、もう少し自分というものを持った方が良いのではないか。いくら相手が店主でもいつでも「うぇいっす」と従わずにね。わたしは今この炒飯を喰いながら切実に思う。君の炒飯を喰ってみたい。あ、これはプロポーズの言葉か。


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