其の111 握力が強いのだ


 森羅万象ありとあらゆることを把握することなど到底不可能である。人間には知りたいと思う欲求が他の生物に比べて多くあるのであるが、だからといって「俺は森羅万象ありとあらゆることを知りたーい、それはどちて? どちて?」などと無闇矢鱈と人に聞いたり自分で調べたりするには限界があって、誰もが何となく不安に感じながらも「ま、いいや。これだけ知ってたら。俺は生きていけるもんね」と折り合いをつけて生きてゆくのである。ところが身近なことでこれまで気づかなかったことを他人に教えられたりするとそうとばかり言ってられなくて「どうして気づかなかったのだ、俺の馬鹿馬鹿」と悔しがることこの上なく、思わず夜中にギターを弾き散らして父上に「うるさい! いい加減いい年なのにまだ常識が解らんのか」と怒鳴られたりするのである。特に偶然人にものを教えることが度々ある人間にとっては、普段偉そうに言っているが故自分が気づかなかったことを教えられると悔しいものである。
「一、ニ、三、四、五、六、七、八、九、十」
「これ、どう読む?」
 痴呆面した小学生の運転君は漢字テストの成績が芳しくなかった為、今日も居残って漢字ノートに字を埋める作業を行っているのであるが、十分も経たないうちに飽きてきたのかわたしに話しかけてくるのである。運転という名前は珍しいが彼の父上の出身地ではよくあるそうだ。ちなみに彼は同級生からシューマッハという渾名をつけてもらっているのであるが、渾名の割に足が速くないのが運転君の目下の悩みである。
「こら、早く書かないとテレビが見られないぞ」
「そうだね。早く帰らないとテレビが見れないんだよね」
「ち、ちょっと待て。『見れない』とはどういうことだ」
「あ、ごめん。『見られない』だったよね。早く帰らないとテレビが見られないんだよね」
「そうだ。少なくともわたしの前ではきっちりとした言葉を使用するように。それは兎も角、早く書きなさい。あと二十行も残っているじゃないか」
「うーん、それよりさ、これどう読む?」
「まったく、仕方ない奴だな。どれどれ。やっぱりこうだろう。イー、リャン、サン、スー、ウー、リュウ、チー、パー、チュウ」
「麻雀ばっかりしてるんだね。そうじゃなくてさあ、普通はどう読む?」
「ワン、ツー……」
「そうじゃなくって!」
「解った解った。いち、にー、さん、しー、ごー、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう。こうだろ?」
「うん、それでね、今度は反対から読んでみて」
「反対か、難しいな。うゅじ、うゅき……」
「またしょうもないこと言って。だから結婚出来ないんだよ」
「うるさい。わたしは結婚出来ないのではなくてしないんだ。そういう主義なのだ。そこんところ間違わないように」
「いたいいたい、あいあんくろーはやめてよー、もう言わないからー」
「よしよし素直な奴だ。その素直さに免じて読んであげようじゃないか。十、九、八、七、六、五、四、三、ニ、一。これがどうした?」
「うん、あのね、一から読むときと十から読むときでは読み方が違うんだよね」
「え?」
「一から読むときだったら『ごー、ろく、なな』でも『ごー、ろく、しち』でも言えるけど、十から読むときは絶対『きゅう、はち、なな』なんだよね」
「じゅう、きゅう、はち、なな……あ、たしかにそうだ」
「それでね、十九、十八、十七、こういうときも『なな』って読んでしまうんだよね」
「おお、そうだそうだ。『はち』の『ち』が『なな』と読ませてしまうんだろうな。なるほどなるほど。君にしてはなかなか面白い発見だ」
「そうでしょ。でも知らなかったのかあ。普段偉そうなことばっかり言ってる癖にさあ」
「うう、そりゃあ知らないことがあるのは当たり前だ。そんなことより早く書きなさい、漢字を」
「え、もう出来たよ」
「そんなに早く終わるはずが……あ、またやったな。漢字は一つ一つきちんと書けと言っているだろうが。部首だけ先に全部書くんじゃないとあれほど言っているだろうが」
「いたいいたい。やめてよー、あいあんくろーはやめてよー」
「ほれほれ、もっときつくなるぞ。まだ半分くらいの力しか出してないんだから、ほれほれ」
「いたいいたい、ごめんなさい、謝るから、許してよー、いたいいたい」
「じゃあわたしが出す問題に答えられたら許してやろう。この間やった問題だから出来るはずだ」
「わかったからあ、いたいいたい、何でも答えるよー」
「単位の問題だ。プールに入っている水は四百、何だ、単位は」
「い、いたい、いたい。ええとええと」
「ほれほれ、もっと痛くなるぞ、早く言いなさい。プールに入っている水は四百なんだあー」
「へ、へくとぱすかる」
「ぎゃははは、四百ヘクトパスカルの水が入っているプールってどんなプールだあ」
「ああ、いたかったあ。もうこの馬鹿力。だから結婚できないんだあー」
「なにを」
 と再びあいあんくろーをしようとしたが既に運転君はその小さな体でするりとわたしの横を通り抜けた後であった。しかし四百ヘクトパスカルの水が入ってるプールって。何だか吹き飛ばされそうで怖いぞ。


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