其の124 もう少し何とかならないものか


 わたしをはじめわたしと同じ職種の人間には駄目人間が多いように思われるが、実際のところいわゆる駄目人間と呼ばれれる人間は少なく、単に「駄目な人」が多いように思える。彼ら駄目な人はその駄目さ加減からか、この仕事を天職であるとさえ考えており、また現在就いている仕事はやりがいのある立派な仕事であると思っており、学歴の割に非常に情けないことをやっていることに気づいていない。そしてその種の駄目な人にありがちなのだが、妙に「素敵が大好き」であり、自分は大して本を読んでもいない割に「読書」こそ国語力をつける根本であると考えていたり、そして「考える力」を身につけさせることが教育であると信じていたりもする。この「考える力」というのが曲者で、中学程度の学習内容であればいわゆる「考える力」というのが必要だと言われる問題であっても単に記憶力が良ければ解けるものであるから、その「考える力」というものが必要だったのか疑わしい。そしてその「考える力」とでもいうものは真に身につけさせることができるのか、そもそもそんなものがあるのか疑問なのである。なんだかんだ言っても「考える」ということは如何に記憶していることを利用するかということだけで、たとえば数学などは「ひらめき」とも言われる「考える力」の必要な科目だと思われているが、高校数学程度までは記憶力のあるなしで出来る出来ないが決まるように思えるし、また無の状態から考えはじめる人間など一人としていないはずだ。つまり経験を含めた記憶というものが学力というものを判定する唯一のものだとわたしは考えるのである。
 しかし「考える力」が好きな人間は多く、これこそが教育の成果を示すものであると信じて疑わない人も増えてきており、最近では入試問題にまでもその傾向が強くなってきているのである。その代表は情けないことに地元大阪の公立問題であり、三四年前くらいからこれまでの問題傾向から一転して、いわゆる「新傾向」と呼ばれる問題が中心になってきたのである。たとえば数学なんかだとこういう問題がある。
 ある飲食店における月曜日から金曜日までの客数がA欄に、そしてB欄には客数を百二十人を基準としたプラスマイナスによって表された数字で書かれている。どちらかの表を利用して五日間の平均を求め、何故その表を選んだかの理由を述べよ、こういう問題である。驚かれる方もおられるだろうがこれが高校受験の問題だ。何とも情けないがこれが現状である。答えは簡単に出るのだが、しかし理由を書かせるのが何とも気持ちが悪い。結局何でも良いわけで何なら「AよりもBの方が気持ち良いから」「マリア様がわたしの頭上におりてきてAにしなさいとおっしゃるから」、これでも正解である。何を判定したいのか理解に苦しむのである。
 国語は国語で負けてはいない。去年の問題なのだが、しょうもないエッセイストだかの文章をもってきて色々と問題を作るのである。その中でこういうのがある。
「あなたが討論の司会をするとすれば、どのようなことを心掛けようと思うか。簡潔に書きなさい(五点)」
 何を言っておるのだろうか。これではどんなことを書いても正解ではないか。「田原総一郎のように」だとか「気楽に」だとか「最後にオチをつけることを忘れずに」。なんとでも書けるのである。しかもこの問題の五点というのは漢字二つよりも配点が大きいのである。意図が不明である。
 色々と笑わせてくれる「新傾向」の問題の中での白眉は平成九年度の社会の問題である。
 ある人物の銅像の写真がある。それはある駅に貼ってある観光ポスターらしい。このポスターに興味をもったAさんは自作の宣伝文句(キャッチフレーズ)を考えてみたらしい。ちょっと気持ち悪いAさんである。次が問題である。「あなたもこの人物の出身地である都市の宣伝文句を十字から二十字で考えなさい。宣伝文句には、人名や地名など、その都市に関連する固有名詞を二つ以上含めること(三点)」
 どういうつもりなのだろうか。写真にキャッチフレーズをつけろだなんて、これではウェブによくあるキャプションつけと同じではないか。おそらくこの問題の制作者はこう考えているはずだ。まずこの銅像の人物がどんな人物でどこの出身か知らなければならない。これは歴史の知識である。そしてその出身地にはどのような特徴があるか知っておかなければならない。これは地理の知識である。そしてキャッチフレーズを短い時間で思いつくのはそれなりのセンスが必要だ。どうや、新しい傾向やろ、こんな感じのはずである。しかしセンスのあるキャッチフレーズを中学生に作らせるというのは如何なものであろうか。専門のコピーライターでも苦労してキャッチフレーズを作ったりするものなのではないか。それを四十分の試験時間に考えろというのはかなりな問題である。
 働くマシーンだとか便利屋さんと化しているわたしは余技で社会なんかも担当していたりするのだが、この時期になると公立入試に向けて過去の入試問題を中学生どもにやらせてみたりする。問題を初めて目にする中学生どもはこのキャッチフレーズ問題に驚き戸惑いをみせる。周りをきょろきょろしてどうしたものか戸惑っておるようである。中には手をあげて質問をするものをいる。
「あの、この問題ですけど、どんなことを書いてもいいんですか」
「ああ、その問題か。問題文にある通りに答えればよろしい」
「で、でも……」
「ま、わたしが採点するんだから、あまり気にせず書きなさい」
「はい」
 毎度のことだが公立入試の過去の問題をさせるとこのような質問が出るのである。しかし大半の中学生はいい加減であるし、何も考えていないので適当にキャッチフレーズを書くのである。
 ちなみにこの問題の写真には坂本龍馬の銅像が写っており、問題の注文通りに答えるのならば、高知だとか土佐だとか坂本龍馬だとかいった固有名詞を含めた宣伝文を書けば良いのである。しかし中学生は侮れない。思いもよらないところからこのキャッチフレーズを思いつくのであった。まずは正解にしたものから。
「偉大な土佐の坂本龍馬」。偉大なという言葉が地名にかかっているのが気になるが取り敢えず二つの固有名詞はクリアしているので正解。ついでに言えばこれを作った中学生はこれ以外殆ど出来ていない為甘い採点になった。
「土佐生まれの土佐育ちだ! 坂本龍馬」。事実を述べただけであるが、これも条件をクリアしている為正解。
「荒波たつ龍馬、いざ高知へ」。意味はよく解らないが何となく勢いがあって丸。
「坂本龍馬も食した黒潮鰹のたたき」。これも意味が不明である。黒潮鰹というものが存在するのかどうか解らないが何とか丸。しかしこれ駅に貼ってあるポスターという設定のはずなのだが。
 次に不正解にしたもの。
「坂本龍馬の出身地広島。ぜひ広島市へ」。思い切り間違っておるのである。
「出島やカステラある。いい。長崎県」。これもかなりの間違いの上、何だかインディアン口調みたいである。
「おい、この坂本龍馬が!」。呼捨てにしているのである。そして「この」「が!」なのである。これでは坂本龍馬も謝るしかないではないか。そして条件をクリアしていないのでわたしの好みではあるがバツ。
「岡山で坂本龍馬に十六文をかませ!」。惜しい。これが高知県だったらそして銅像がジャイアント馬場だったら。
 次に部分点を与えた何とも微妙なもの。
「おいでやす、坂本龍馬の高知県ぜよ」。おいでやすって、思い切り上方言葉ではないか。しかも最後に「ぜよ」ってつけてるし。ま、二点あげるか。
「きゅうりとピーマン坂本龍馬」。条件はクリアしていないのだが、高知県と言えば野菜の促成栽培が有名だし。そして何となく語呂が良いので二点。
「ピストルを使いこなす男、それは坂本龍馬」。大爆笑。「使いこなす」というところが二重丸。しかし惜しまれるのは条件をクリアしていないところである。考えたあげくこのセンスに二点。
 所詮こんなものである。「新傾向」だとか「考える力」だとか「記述力」だとか言っても当の中学生は何も考えていないものなのである。しかしわたしはそれほどの数を採点するわけではないから楽しんでいるが、実際に何百という答案を採点する高校教師は如何なる思いでこのキャッチフレーズを採点していたのだろうか。同情してしまう。


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