其の131 神の視点


 非常に陳腐な話だが、幼少の頃より不思議に思っていることがあって、それは他人と自分との感覚というものが本当に同じなのだろうかということだ。もちろん他人の気持などというものは到底理解できようはずもないことは幼いながらも理解していたので、そういった感覚が他人と異なることについて不思議に思っていたのではない。感覚といってもそれは色彩であったり形状であったりするもので、たとえばここにコーヒーの空罐があるのであるが、この罐は青を基調としていて上部は紺になっている。おそらく他の人が見てもこの罐の色を青と認識するであろう。しかしここでどうも引っ掛かることがあって、それはこの青というものがわたしにとって青であるし他人にとっても青であるのだが、実際同じ色が見えているのであろうかということである。わたしがこの色を青と呼んでいるだけで他人の目には別の色が見えている可能性もなきにしもあらずであり、つまり同じものを青と呼んでいても実際に感じている色彩が異なる可能性があるのではないか、本当はまったく別のものを認識しているのではないか、そういうことを考えていたのである。たしかに色彩というものは光の波長の違いによってどう見えるかということが決まってくるということなので、二人が同じ波長の光を青と呼んでいれば一応のところ同じ色を認識していると言えるのかもしれない。しかし同じ波長の光を感じて、そしてそれを同時に青であると認識したところで、この二人がその光をどう感じているかということになるとこれには疑問が残る。同じ波長の光を同じ名称で呼んでいたからといって、それが同じものを感じている證明にはならないように思えるのである。わたしの中で「青」だと認識する色を他人の脳内に送った結果、それを「赤」だと認識することだってないとはいえないし、また他人が青だと感じている色をわたしの脳内に送った結果、「これは到底青といえる代物ではない」と叫んでしまうことも有り得る。自分の感覚と他人の感覚とでは最終的なところで完全に一致することなどはないし、それは色といった一見絶対的とも思えるものであっても一致することはないということである。
 しかし色彩というものはこういう具合に他人とのずれがあったところで、それが一生完全に他人とずれ続けるのであれば特に問題はなく、かえってある日突然全世界の人々の脳内に何らかしらの変化があって、自分の脳内で認識している色をそのままストレートに表現できてしまうことがあったとしたらこれは大変なことになるのではないか。「わたしはこの色彩をこれまで赤だと言っていましたが実はあなたが脳内で感じているところの青に相当することがわかりました」などとそれぞれの人が言い始めたとしたら一気にこの世界は崩壊してしまうに違いない。こういう考えは真剣に考えるべきことではないとも思うのであるが、しかし一旦考え始めるととてつもなく恐ろしいところに行き着いてしまってどうにも落ち着かなくなる。背中に何かがいるような、そんな漠然とした恐怖を感じてしまう。しかし色については他人との差異を問題にしていることであって、はっきりと他人との差異が證明できるまでは、取り敢えず「同じ色が見えてる」と一旦問題を横に置いておくことで平静を保つことができるのだが、こと行為ということになると色以上に不安は広がってくる。たとえば今この文章を書く為にコンピュータに接続しているキーボードを叩いているのであるが、これは果たしてわたしが認識している通りの行為をしているのかという不安が広がってくるのである。わたしが「キーボードを叩いている」と認識している行為は他人が見てもたしかに「キーボードを叩いている」行為に映るのであるが、しかし実際のところ別の行為に耽っている可能性がないかということである。これは文章を書く為にキーボードを叩くことというのを「単なる自己愛の現われである」という具合に皮肉めいた物言いでもって別の行為であると言い切ってしまうことではなくて、そういうのは単にその行為の解釈のことであって真に別の行為であると言っているわけではないし、ここでわたしが言いたいことではない。仮に小説でいうところの「神の視点」なるものがこの現実世界に存在しているとして、その「神の視点」でもってわたしの「キーボードを叩いている」という行為を覗いてみると実は水死体の腹のあたりをまさぐっている行為である可能性もあって、そのことを考え始めると急に薄ら寒い気分になってくる。しかし幾らそういう可能性があると考えても、現実にわたしは「キーボードを叩いている」ことには違いないし、それ以外に考えようもなく、そして他人がわたしの行為を見てもやはり「キーボードを叩いている」とわたしの肩を叩きながらわたしの行為をわたしが認識している通りに認めてくれるはずなのだが、それでも「本当は水死体の腹のあたりをまさぐっている行為なんだよ、いくら世界中の人が認めてもね」と薄ら笑いを浮かべながら悦に浸る神がいるかもしれないという可能性は拭いきれない。こんな可能性はほとんど妄想であると一笑に付されることであるし、わたし自身もそんなことを微塵も信じていないし、そしてそんな可能性はまったくないと信じているからこそ今もキーボードを叩いているのであって、もし僅かなりとも「水死体の腹のあたりをまさぐっている」のかもしれないと考えていたりするのならば途端にキーボードを窓から投げ棄ててしまっているはずである。この考えを妄想であると一蹴してみてもこの可能性に気づいた時点で何か禍々しいものが頭の中に澱のように溜まっているような気分の悪さが残る。そしてこの気分の悪さというものは「可能性」というある意味理性的な考えに基づくからこそ生まれるのであって、「そんなことを考えるのは愚かである」と頭から否定できないところがあるのがどうにも厄介である。この可能性がないことを證明する為に、たとえば別の「神の視点」というものを持ち出して、その神に「さっきの神の言うことは嘘であって、わたしの見るところあなたの『キーボードを叩いている』という行為はバナナの皮を頭に乗せながらウキキと叫びまわっている行為である」と先の「神の視点」の絶対性を否定して様々な「神の視点」というものを持ち出すという方法でもって克服できるように思えるのであるが、しかし幾つかの「神の視点」というものを並列的にならべたところで、それぞれの神のどれが真実を言っているのかということはわからないことだし、また無理矢理どれかの神を選んでそれが真実を言っていることを證明しようとするなら、更に上位にある「神の視点」というものを用意して、これまでの「神の視点」というものを「メタ神の視点」に落とさなければならなくなる。そんな作業はきりがないし、無限にそんな作業を繰り返したところで「水死体の腹のあたりをまさぐっている」という可能性が消えるというわけではなく、結局は「キーボードを叩く」という行為が実は「水死体の腹のあたりをまさぐっている」という可能性は依然として残ってしまうのである。
 それでもわたしは「キーボードを叩く」のであって、可能性を畏れてその行為を止めるわけはないのだが、やはり気分の悪さが残る。こういう場合は原因を追求して完全に「水死体の腹のあたりをまさぐっていない」ことを證明するという厄介な作業をすることよりも、現実的にはこの気分の悪さをなくしてしまうことの方が簡単であって、誰もがそちらの方を選ぶ。そこでこの「キーボードを叩いている」行為は百歩譲って「水死体の腹のあたりをまさぐっている」行為だとして、それでもどこか笑えるようなことを考えるのが一番だと判断するのだが、そのときつい「やっぱり『C』の位置には水死体の乳首があったりして」などと下らないことを考えてしまい、そして悪乗りしてしまってCCCCCCなどと遊んでみたりするのであるが、そうしているとかえってキーボードが水死体であることに妙なリアリティが湧いてきてしまって余計に恐怖が増してきたりもする。


[前の雑文] [次の雑文]

[雑文一覧]

[TOP]