其の154 天啓天国


 わたしはどこの宗教にも属さない者である。仏教はもちろんキリスト教もイスラム教もブードゥー教も、興味はあるが特に信仰しているものはない。そんなわたしでも大した動機もないくせに新約聖書を読んだことがある。それは小学生の頃なのだが、学校へ向かう道筋で小さな新約聖書を配っている人がいて、ぼうっと歩いていたわたしは何となくその聖書を受け取り、そして単なる読み物として読んだのである。しかし大半は忘れてしまっている。信仰があって読んでいるのではなかったものだから仕方がないが、それでも覚えている箇所もある。それは当時小学生のわたしがその記述に納得できなかったところである。もっともその聖書の読み方はSF小説などにおいて細部の設定がしっかりしていないことを指摘するのを楽しみに読むような方法であって、折角聖書を読むのだからもう少し向上心をもった読み方をすればよいものをただただ腑に落ちない箇所ばかりを何度も何度も読むという方法であった。そして全体は殆ど覚えていないにもかかわらず、そういう読み方をした箇所のみ未だにその内容を覚えているものである。
 たとえばキリスト教において重要な役割をはたした聖パウロ(ユダヤ名ではサウロ)も、その始めはイエスの教えに敵対していて、キリスト教徒にかなりの迫害を加えていた。新約聖書においてこう記されている。
「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった」
 この一文を読んで小学生のわたしが思ったことは「何もそこまでしなくてもいいじゃないか」ということであった。もちろん当時と現在とでは感覚が違っているだろうからパウロのキリスト教徒への迫害は至極当然のことだったのかもしれないが、しかし後のパウロの転向ぶりを考えればいくら自分と敵対している宗教だからといってやりすぎの感じもする。それ以上に当時のわたしがどうも気になったのは次の部分である。
「殺害の息をはずませながら」
 殺害の息とはいかなるものなのだろうか。小学生のわたしにはまったくわからなかったし、今でもよくわかっていない。やっぱり息というくらいだから「ふう」だとか「はあ」だとかいったものなのかもしれないが、しかしここで問題になるのは「はずませながら」という部分である。息をはずませるという言葉はある。辞書によると「はげしい息づかいをする」とある。しかし「殺害の息をはずませる」ということになると途端にわからなくなるのである。しかし何だか嬉しそうである。息をはずませるというのは。素直に解釈してみるとこうなるのではないだろうか。
 パウロは今日もロープを片手に町を元気に走りまわっている。
「はっくがい、はっくがい、楽しいな」
「パウロさん、今日も迫害っすか?」
「ういーっす、今日も男も女も縛り上げるっす」
 パウロは八百屋ヨシュアの質問に答えながらも足踏みを止めようとはしない。いつ何時キリスト教徒が現れて迫害のチャンスに恵まれるかわからないからだ。パウロはキリスト教徒を迫害するためにほんのわずかの時間も立ち止まらないのだ。
「ち、ちょっと待ってくださいよ、パウロさん」
「キリスト教徒はおらんかあ、悪い子はいねえかあ、律法を軽んじる悪い子はいねえかあ」
「ねえ、聞いてるんすか? パウロさん、それじゃあ秋田のなまはげっすよ。そうそうあそこの家にキリスト教徒がいるって聞いたっすよ」
「おお、そうか、でかしたぞお、ようし飴ちゃんをやろう」
「ありがとうっす、それで早速行くんですか?」
「あたり前田のパリサイ人。行くよう、迫害しに」
「仕事が早いっすねえ」
「うっほほーい、はっくがい、はっくがい、楽しいなあ。これからそのキリスト教徒を縛り上げて牢屋に入れて入れて入れまくるぞお。じゃあ迫害で忙しいのでこれにて失礼するの助」
 パウロは駆け足で目的のキリスト教徒がいる家に向かう。脇目もふらずに。今日もパウロは殺害の息をはずませながら迫害しまくるのであった。(完)
 何が(完)だかわからないが、何となく小学生の頃はこのように感じていたし、今もそれほど変わってはいない。
 このパウロであるが、新約聖書にも出るくらいであるからこの後いわゆる「パウロの回心」という出来事があって百八十度転向し、熱心なキリスト教徒になる。そしてこの「パウロの回心」も当然新約聖書にあって、それは要約するとこうである。
 いつものように迫害に勤しんでいたパウロはダマスコのあたりを殺害の息をはずませながら走っていると、突然天からの光が彼を照らし、そして「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエス(既にイエスは処刑になっている)の声を聞き、そして目が見えなくなる。三日間飲まず喰わずで家にいると、イエスから指示を与えられた弟子のアナニヤが現れ、そしていわゆる「目からうろこのような物がおちて」目が見えるようになり、そしてここから後パウロは敬虔なキリスト教徒になるのである。
 ここのくだりも小学生のわたしにとっては非常にわかりにくかった部分である。まずイエスはキリスト教徒へ過酷な迫害をしているパウロのことを気にかけて、わざわざ目を見えなくさせてそして弟子に迎えにやらせている。たしかに後のパウロの働きを知っているのならばそれくらいの労を惜しまないのであろうが、それでもやることが派手である。そのあたりが何となく芝居がかっているのが非常に気になった。しかしそれ以上に気になったのは、新約聖書を読む限りかなり天からの声を聞く人が多いという点である。いわゆる天啓という奴である。たしかに神の力を示すためには天啓は非常に便利な代物であろう。しかしちょっと多いような気がする。そこで小学生のわたしが感じたのは「何だか神様って天啓ばかり与えてて忙しそう」ということであった。新約聖書に書かれていることがすべて事実だとは思わないが、もし新約聖書というものが原始キリスト教が発展する過程のほんの一部分を取り上げていると想像してみると、新約聖書に書かれている以上にかなりの人間が天啓を受けているのではないか、そのように考えたのである。もしそうであるなら大抵の人間はいくら敬虔なキリスト教徒であっても大したことを考えているわけではないのだから、神様も困ったことになっていたのかもしれない。
「今晩のおかずは何にしようかしら? 昨日は鍋物だったし。毎日考えるのは大変だわ」
 こんなことくらいしか考えていない者にでも天啓は与えられる。
「今晩のおかずはやきそばパンとブリの照り焼きがよかろう」
「主よ、あなたはどなたですか」
「わたしはあなたの悩みを解決する者である。立ち上がって町に入りなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです」
「町に入ればどうなるのですか?」
「右手に魚屋『うをまさ』があります。そこでブリを四切れ買いなさい。そして百メートルほど奥にゆくと焼きたてのパン屋さんの『アローム』があります。そこでやきそばパンを四つ買いなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです」
「しかしわたしの家族は五人です。ひとつ足りません」
「食べられなくて文句を言う者がいれば右の頬を叩きなさい。そして左の頬も叩きなさい」
「あ、はあ、わ、わかりました。ありがとうございます……」
 また神様だっていつもいつも天啓を与えているのだから気晴らしに無茶なことを言ってみたりもする。
「はあ、今日は初めてあの人たちに会うのかあ。でもお互いに顔を知らないしどうしよう」
 こんな小さなことに悩んでいる者にも天啓が与えられる。
「キース、キース、部屋の入り口に置いてあるものを手にとりなさい」
「主よ、あなたはどなたですか」
「わたしはあなたの悩みをズバット解決する者である。立ち上がって入り口にある電話帳を手にとりなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです」
「この分厚い電話帳をどうするのですか?」
「あなたと同じカレー好きと共に、乗せなさい」
「の、乗せるって、この電話帳をですか?」
「そうです。二人で頭に乗せなさい。そして踊りなさい」
「お、踊るのですかあ?」
「そうです。そしてその電話帳を投げ合いなさい。そうすればあなたの目的は達せられるでしょう」
「は、はあ、わかりました。ありがとうございます……」
 そして神様だってエスカレートする。
「これから何をしようかなあ」
 こんな下らないことで迷っている者にも天啓は与えられる。
「インディのカツカレー特盛りを五十杯食べなさい」
「主よ、あなたはどなたですか?」
「わたしはあなたの悩みをズバット解決ズバット参上する者である。立ち上がって車に乗り大阪は土佐堀二丁目に行きなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです」
「しかし一杯でも特盛りなんすから大変なんですよ。それを五十杯も無理っす」
「そしてそれから『めしや丼』へ行きミックス定食六百五十円を頼みなさい。おかわり自由ですから八十杯はおかわりしなさい」
「無理です、そんなの無理っすよ、主よ」
「そして茶碗を高らかに持ち上げ天の父に感謝の意を表しなさい。そして踊りなさい」
「食べながら踊るんすかああ」
「そうです。踊り喰いなさい。バクバクバクバク踊り喰いなさい。そうすればあなたの目的は達せられるでしょう」
「でしょうって、そんなの無理です。無理ですってえええ」
「もしわたしの言うことが聞けないのなら、目にうろこのようなものがついて目が見えなくなります」
「ひいいいいい」
 まさかこんな下らないものでも天啓と呼ぶのかどうかわからないが、あれだけたくさんの天啓を与えている人だからもしかしたらそういうものもあったのかもしれない。
 そしてこれを読んでいる人にも天啓が与えられるのかもしれない。
「今回のは長いし、おもしろくないなあ」
 こういう人にこそ天啓は与えられる。
「やさしい気持でこの文章に接しなさい」
「主よ、あなたはどなたですか?」
「誰だっていいでしょう。とにかく少しでも良いところがあれば良い評価を与えてあげなさい」
「まったくないんですが」
「そんなことはありません。時間がつぶせただけでも良かったのではありませんか」
「時間の無駄でした」
「な、何を言うんですか。ほらインディの場所もわかったでしょう」
「別に知りたくはありませんでした」
「では、インディの百円割引券の十枚綴りをあげましょう。ですから少しでも良い評価をあげなさい」
「そんなものいりません」
「そんなこという人にはバチをあてます。目にうろこのようなものをつけて、どんなものを読んでもおもしろがるようにします」
「や、やめて、やめてくださあああああい」
 人にとって一番大事なもの、それはやさしさである。


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