其の167 言ってしまう


 人が人である由縁は同じ状況に陥ると誰もが同じ発言をしてしまうところにある。
 たとえば長期休暇が終って最初の出勤日のことだ。日に焼けた男が近くにいたとする。すると決まって周りの人はこう言うのだ。
「海にでも行ってきたの?」
 決まって言う。人は概ね肌が焼けた人を見るとこう言う。しかし肌が焼けているからと行ってすべての人が海に行っているわけではないだろう。もっとあらゆる可能性を考えた上で彼に訊くべきだ。
「すごいキャンプファイヤー?」
 ないとはいえない。夏休みだ。キャンプにも行くだろう。そこでキャンプファイヤーもするだろう。一つや二つではない。もう数え切れないほどのキャンプファイヤーだ。「遠きー山にー日はー落ちてー」と幾度謳ったことだろうか。そんなことだってありうる。しかし誰も彼にそんなことを訊かない。
「海にでも行ってきたの?」
 誰もがその言葉を繰り返すのである。今日一日で何度そのことを訊かれただろう。実際に彼が海に行って日焼けしていたとしてもうんざりするはずだ。しかしだからといって彼の姿を見たすべての人がこう言った場合困るのは彼だ。
「まぐろ漁船?」
 しかし何だってまぐろ漁船なのだ。このように言われた彼はその人に対してこう答えるだろう。
「乗ってませんよ。まぐろ漁船なんて」
 それでも彼らは引き下がらない。
「だって日焼けしてるから」
「でもまぐろ漁船には乗ってませんよ」
「じゃあ捕鯨?」
「捕鯨もしていませんし、まぐろ漁船にも乗っていません」
「だったら、すごいキャンプファイヤー?」
 かなり不条理な展開になってしまうのである。あらゆる可能性をもって考察するのは物事の前提ではあるが、しかし人がつい言ってしまう言葉の場合かなり困ったことになってしまうのである。
 また特に長期休暇の前後で様子が変わっていない者がいる。明らかに遠出した気配はない。しかしそんな彼であっても周りは放ってはおかない。
「ゴロゴロしてたの?」
 誰もが言う。決まってこう言う。しかし彼だってずっと家に閉じこもっていたわけではないだろう。ちょっとした花火大会などには出かけたかもしれないではないか。ましてや遠出しなかったことがどうしてこうなるのだ。
「ゴロゴロ」
 いい大人がゴロゴロだ。六畳の和室でゴロゴロだ。板間でゴロゴロは気持いい。しかし遠出しなかった彼はずっと家でこんなことをしていたわけではない。
「ああゴロゴロしてる。すっごくゴロゴロしてるなあ。いやあゴロゴロ」
 いい大人がゴロゴロ。雷さまじゃあるまいしましてや腹を壊していたわけでもなくゴロゴロだ。まったく人を馬鹿にしている。だから彼もそんなことを言ってくる人に反抗してしまうのだ。
「いや、別にずっと家にいたわけではないので」
「じゃあどこか旅行にでも行ってきたの?」
「いえ、行ってはいませんけどゴロゴロしてたわけではありません」
「じゃあ休みの間何してたの?」
 そこで彼は困ったことになってしまうのである。特に休みの間やっていたことなどないのだ。普段の通り食事をして買い物に行ってテレビを見てただけなのである。そういう状態をもって人はこういう。
「ゴロゴロしてる」
 しかし彼も一旦ゴロゴロしていないと宣言したのであるから流石に、「やっぱりゴロゴロでした」とは言えない。そこで何故かこう言ってしまうのであった。
「すごいキャンプファイヤー」
 ここでもかなり不条理な会話が展開してしまうのである。
 また長期休暇の前後で明らかに体調が悪くなっている人もいる。どうせ休み中に暴飲暴食で体調を崩したのであろう。そんなこと誰もがわかっているから誰も彼に質問などしない。しかしそんな彼は決まって自分からこういうのだ。
「身体ボロボロ」
 そこまで言うことはないだろう。普通に歩けているし仕事をしようと職場までやってきているのである。それなのに彼はこういう。
「ボロボロ」
 それほどでもないはずである。しかし彼らは決まってこう言うのだ。何となく不調であることの表現が「ボロボロ」なのであろう。しかしそんなことを言う者にどう言えばいいのだろうか。そんな体調の管理すらできない人に言うべき言葉などないのである。しかし皆そんな彼にも優しい。
「休み中何かありましたか?」
「いやあ、毎日連れと酒ばっかり呑んでて」
「そうですか。大変ですね」
「いやあ、もう、ボロボロ」
 そんなどうでもいいことを武勇伝のように語る彼に対して何だか妙な反抗心が沸いてくる人がいないわけではない。そこでこういう人も現れたりもする。
「俺もすっごいボロボロなんだよ」
「どうして?」
「毎日酒ばっかり呑んでたからさ」
 しかし反抗心を同じベクトルで返す人ばかりとは言えない。あらゆる可能性をも含めてどんな発言をするかを考えるべきだ。
「身体ピロピロ」
「はあ?」
「だから身体ピロピロ」
 いくら彼に反抗心をもったからといって「ピロピロ」はまずい。いい大人が「ピロピロ」だなんてちょっとどうかしている。そしてそんなことを言った人に返ってくる言葉はこうだ。
「ピロピロって、何なの?」
 しかし何も考えず、ただただ「ボロボロ」言ってる彼に反抗したいが為に言ったものであるから、かなり困ってしまうのである。そこでついついこう言ってしまうのである。
「すごいキャンプファイヤー」
 やっぱり不条理な展開になってしまうのである。
 誰もがつい言ってしまう言葉には人生の縮図が隠されている。


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