其の172 ジョン・レノンに捧げるだに


 本日は十二月九日である。この日はわたしにとって実に重大な日である。そう、わたしの敬愛するジョージ・ハリソンが死んでから十日後なのである。命日は十一月二十九日、日本では十一月三十日であるが、彼の死亡記事を読んでからのわたしは抜け殻のようであった。仕事をしていても途中でフリーセルをやってしまいまったく手がつかない。本を読んでいても途中でフリーセルを始めてしまいちっとも先に進まない。カレーを食べていても途中でフリーセルを始めてしまい腹八分目までしか入らない。フリーセルをしていても途中でソリティアを始めてしまいちっとも解けない。そんな抜け殻のような生活をしていた。これもわたしの敬愛するジョージ・ハリソンが死んだからである。そんな抜け殻のようなわたしを見た人は皆わたしのことを「悲しみに打ちのめされている好青年」だと思ったことであろう。そこまで思わずとも「何か大きな悲しみを背負ったハンサムな好青年」だと思ったことであろう。それくらいわたしの悲しみは大きい。ついでに今日はジョン・レノンの命日でもある。というわけで今年もジョン・レノンを枕にして始まるのである。
 わたしの子供の頃父上はわたしが駄々をこねると決まってこう言った。
「あんまりわがままばかり言ってると表に放り出すぞ」
 だいたいそういうときは父上は拳に息を吹き掛け腕を振り上げる動作をするのだが、そのときのわたしは父上に殴られるかもしれないという恐怖よりも、家から追い出されて飢えと寒さで死んでしまう方が恐ろしかった。今思えばたとえ家に戻れなくても何とか生きていけそうな気もするが、それでも子供の頃であったから心底そんなことになっては死んでしまうとすぐさま父上に謝った。実際のところもし家から追い出されたのなら親戚の家などに転がり込むことによって飢えの恐怖からは逃れられるのだから、本当にわたしが怖かったのはそんなものではなく、世間というものからはじき出されてしまうことへの恐怖だったのではなかろうか。子供ながらにそう感じていたように思える。
 ここからわかることはまだまだわたしの子供の頃には父親には一人の子供の運命を変えてしまう、実際に変えなくてもそう思わせる力があったということである。こういうのを父権とでもいうのかもしれないが、少なくともわたしの家ではそういうものがあったのである。しかし父上がわたしを叱るときにこう言っていたらどうだろう。
「あんまりわがままばかり言ってると蒲団でぐるぐるまきにするぞ」
 父上の口癖がもしこうだったら父権もへったくれもないではないか。だいたい「ぐるぐる」というのがいけない。「ぐるぐる」。なんて頭の悪そうな響きなんだろう。それに蒲団でぐるぐるまきにされると大抵の子供は喜んでしまう。これでは父権なんてものは微塵も感じられないではないか。
 また学校においても父権というものがまだまだ残っていた。それは先生が男であるとかそういった問題ではない。女の先生であってもそこには父権はあった。それが現れるのは宿題など忘れ物があったときである。
「廊下で立ってろ」
 今となってはこういった慣習は駆逐されたようであるが、わたしが小学生の頃はぎりぎり生きていたようで、特別問題にはならなかった。わたし自身何度も廊下で水の入ったバケツを両手にもって立たされたものである。このような忘れ物の罰則にはいろいろあってわたしの小学生の頃の先生の一人は宿題を忘れた生徒にこのような罰を与えていた。
「ヒンズースクワット百回」
 流石に小学生のことであるから途中休むことなくできるわけもないのであるが、それでも先生は宿題を忘れた生徒にこう言った。
「ヒンズー百回」
 我々は先生の口から「ヒンズー」という言葉が出るのに恐怖していた。当時はヒンズーという言葉の意味も何もわかっていなかったのであるが、それでもヒンズーという言葉の響きが妙に怖かったのは事実である。ここにもしっかりと父権というものは生きていたように思える。もしそのときの先生が宿題を忘れた生徒にこう言っていたらどうだろう。
「猫を抱いて廊下に立ってろ」
 猫を抱いて廊下に立つ。ただただ猫を抱きながら廊下に立っているのである。腕の中にいる猫は何だかもぞもぞと動きだす。その上にゃーにゃー鳴いている。あまりの事態に宿題を忘れたことへの反省も何もわからない。ただただ茫然と猫を抱いて立っているのである。そこには厳しさだとかそういった問題はどこかへいってしまっている。
 先日中学の頃の友人から電話があった。何となく話は彼の小学生になる子供のことになった。彼によるとどうにも子供が言うことを聞かなくて困っているということである。だいたい中学の頃から威厳がない男であったから子供に舐められてしまうのも無理はないが、それでも一発父親の威厳というものを見せつけたいと常々思っているらしい。
「じゃあ、表に放り出すぞ、というのはどうだ」
「いや、もうそれは言ったよ。そうしたら平然としておじいちゃんのところに行くっていうから効果がないんだ」
「そうかじゃあ、押入れに閉じこめるぞ、というのはどうだ」
「それも言おうと思ったんだけど、うちの押入れはいろいろ入ってて子供が入るスペースがないんだ」
「今まで結構効果のあったのはないのか」
「そうだなあ、プレステ捨てるぞ、というのは結構効いたかな」
「何だかそれじゃあ父親の威厳という感じがないな」
「そうだな、何かこうびしっと子供が怖がってすぐ謝ってしまうようなのがいいんだがな」
 父親の威厳は失われ、父親には既に子供を叱りつける言葉がなくなってしまったのだろうか。
「わがままばかり言ってると、ゲームのセーブデータを消去するぞ!」
 これはあまりにも陰険であるし、あまりにこせこせしている。父親の威厳などまったく感じられない。
「わがままばかり言ってると、ベランダから飛び降りるぞ!」
 おそらく勝手に飛び降りればと言われるのが関の山だ。
「あんまりわがままばかり言ってるとなあ、噛むぞ!」
 子供に噛みついている父親。痛い痛いと泣き叫ぶ子供。子供もすぐに謝ってくるだろうがこれをしてしまえばもう父親としては終りだ。
「そういえば、おまえの子供が大事にしているのはプレステの他には何かあるのか」
「ええとなあ、あとレゴブロックと飼っている猫かな」
「じゃあ、今度子供が何か叱られるようなことをしたら、プレステとレゴと猫を捨てるぞ、というのはどうだ。かなり効くんじゃないか」
「そうだな、たしかに一遍にそれだけ捨てられると泣き叫ぶだろうな」
「じゃあ言ってみろよ」
「そうだな、今度何かやったら言ってみるよ」
 子供から取り上げたプレステとレゴと猫を抱えて茫然としている父親。そこにはもう父権というロマンはない。


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