其の8 父に捧ぐ


 んー、よしよし、手細いですねえ、んー、んー……寂しかったん? ン? お父ちゃんいなくて寂しかったん。んーー、んーーー、寂しかったですねえ。いきたい? んー、いきたいですねえ。こらこらー、んー、舐めるなって、んー、べろべろしたら駄目駄目、駄目ですねえ、んー可愛いですねえ。
 これは三流ポルノ小説まがいではないし、ムツゴロウでもない。父が帰宅した際の犬との会話である。会話の中にある、「んー」というのは顔を舐めようとする犬へ唇を突き出すときに発する音を擬音化したものであり、「いきたい?」というのは勿論「散歩に行きたい?」の略である。しかしどういう了見だ。どういうつもりなんだ? どこへ行ってしまった、父よ。
 わたしの子供の頃の父は寡黙で実直な男であった。ギャンブルをすることもなく酒に溺れることもなく世間的には非常に真面目な男であった。父の父親は放蕩親父であったらしい。父はよく言った。昔はなあ、金持ちだったんだぞ。おじいちゃんがつぶしてしまったけどなあ。お前のおじいちゃんのおじいちゃんぐらいの人はなあ、村長までやったんだ。それになあ、そこら一帯で初めて電話を買ったのも家なんだ。幼い頃わたしは何度か聞かされた話である。しかし、父が生まれた頃は既に財産などなくむしろ貧しいという言葉が似合う程零落れてしまっていたようだ。親戚の家に里子に出されていた父は中学を卒業すると働きに出た。そして一年間しっかりと働き、その金で夜間高校に通いはじめる。勿論手に職をつけるため工業高校である。卒業後、様々な職につき、この後母と知り合いわたしの誕生となるわけである。
 その後も父は苦労する。仕事を何度か変えながらも地道にわたしと母を養った。父は幸せだったのだろう。その時の写真の笑顔がそれを物語っている。しかしささやかな幸せも長くは続かなかった。その頃勃発した日華事変の長期化によって技術屋だった父にも招集礼状が来たのだ。戦地に赴く前夜わたしたち家族はヤミで手に入れたわずかな豚肉ですき焼きをした。父は始終笑っていた。これ程までににこやかな父を見るのは初めてだった。 父はわたしにいった。「父さんは怖くないんだよ。御国の為だからというわけではないんだ。お前を守る為に父さんは戦争に行くんだ」母は泣いていた。わたしは意味もわからずただにこにこと笑っていた。
 終戦を迎えた年の冬、父は帰ってきた。丁度畑仕事をしていたわたしと母は背後から聞こえる懐かしい声で鍬を放り出し走った。「父さん」。母は泣きそしてわたしも泣いた。父の頬にも一筋の涙が流れていた。「これからはいつも一緒だ。そうだ。犬でも飼って仲良く暮らそうか」
 父はその後、戦友とともにある仕事を始める。父は家族の誰にも言わなかったのだが、強盗や薬の売人といったこと手を染めていたようだ。街にはアメリカからやってきた牧師によって建てられた真新しい教会があり、そこへ友人と共に盗みに入ることになった。金目の物があるという評判だったからだ。クリスマスの夜、人々が帰った後友人とともに忍び込んだ。父はテーブルに置いてある銀の燭台に目をやった。懐にしまおうとしたとき、ドアが開いた。「Hey,Jap! Freez!」拳銃をもった兵士の声が教会中で響いた。父は動けなかった。兵士に捕まれた父は何も出来ずただ座っていた。「ソノヒトハ、ドロボーヂャ、アリマセン。ソレハ、ワタシガ、アゲタモノデスウ」初老の牧師が現れて言った。父は涙をこぼした。父は解放されたあと、盗みには入るまいと決心した。
 懸命に働いた父は、財産もでき市長に立候補し見事当選した。わたしたち家族の幸せは絶頂のときを迎えていた。しかし、それも長くは続かなかった。一緒に盗みを働いていたときの友人の「市長は元泥棒だ」という告発によって市長を辞めさせられたのである。市長最後の晩、父は言った。「犬でも飼って静かに静かに暮らそう」そしてわたしたちは田舎に引っ込んだ。そして今に至る。
 んー、んー。れろれろー、んー、可愛いですねえ。んー。わたしが部屋に戻った後小さな父の声が聞こえる。
 ここまで勝手に妄想を膨らませて初めて父を許す準備ができた。よし、許そうではないか。如何に愚かな犬親父であっても許そうではないか。ムツゴロウ状態である父を誰が責めることができるというのだ。とにかくあれだけ夢中になっている父を止める権利はわたしにはない。取り敢えずはない。
 玄関でドアをあける音がする。母が帰ってきたようだ。あー、ちゃら君ですねー。んーー、んー、おなか空いた? 我慢してましたねー。猫ぴょんですねー、んーー。可愛いですねえ。
 母が幼い頃、夜中に飲んだくれの祖父が祖母を殴る音で目を覚ましたようだ。
 これも許そう。 


[前の雑文] [次の雑文]

[雑文一覧]

[TOP]