其の14 対価


 犠牲の大きいものほどそれに対する報酬も多いものだ。たとえば、これは友人のことであるのだが、本屋からの帰りのことらしい。父親の車で本屋に向かっていたのだが、踏み切りで左折しようとしたところ車幅感覚を誤り電柱でもってドアの辺りを擦ってしまったという。何故本屋に行くのに父親に車を借りなければなかったのかというと彼は大変な田舎に住んでいるからであって、それはもう田舎なのであり、殺人犯が死体を埋める場所として選んだ程田舎だったからであって彼に他意はない。本屋に行くときに乗る車と高級レストランに行くときの車との違いなど彼にとってはどうでもいいことであるので、その車がベンツであったことも他意はない。それで本屋では当初の目的のものが見つかりほくほく顔での帰還であったのだが、その本がヘンリーミラーの「南回帰線」であったことも彼を知っているものにとればいかにもな話で彼の哀愁漂う貧乏臭さにマッチしているので笑ってしまうのだがこの点も彼には他意はないのである。しかしこの本がこの事故を引き起こしたのではないのだろうかと勘繰ってしまう。もし司馬遼太郎や池波正太郎ならばこういった事故は起らなかったかもしれない。いや司馬遼太郎や池波正太郎の本を買いに行った帰りに事故に会う人はヘンリーミラーの本を買いに行った人の千倍ほどいるかもしれないが。しかし彼らしいエピソードである。
 ところで対価というものは人それぞれの価値観に基づくものである。それは酒であったりギャンブルであったり、そういうものと人生を賭けてしまう者もいる。それは酒の酩酊とギャンブルの興奮とが人生と対価であると考えているからでもある。父上なんかは犬と自分の人生を賭けているのか、深夜に餌をやると「規則正しい生活をさせないと長生きできんぢゃないか」と怒るのだが、これも父上の寿命と犬の寿命がほぼ一致するような計らいのようだ。
 ときにわたしは服装には無頓着でいつも同じ服を着ていたりもする。服装に凝るぐらいならCDの五枚も買ったほうが有用であると考えるし、大型書店の店員が呆れ顔で「カバーは御入り用でしょうか、ねえ」などと言われる程書籍を買い込む方が良いと考えるのである。余談であるがわたしの知る中学生は東京書籍という出版社の名前を「とうきょうしょばこ」と自信たっぷりに叫んだことを思い出したのだが、これはやはり余談である。そう、わたしはやはり外見などは本当にどうでも良いと考える質なのだ。身長が百八十四センチもあり細身でなかなか男前であるのに勿体などと全く言われないのだが、いや一度だけ街をうろつくゲイに言われたことがあるが、まあ服装には無頓着なのだ。部屋の中も汚い。足の踏み場もないほどとはよく言ったもので本当に足の踏み場もなく、ときに散乱している書籍やCDのケースを踏んでしまい「ひええ」などと深夜に叫ぶこともある。
 ところで批評家の呉智英の計算によると、一生のうち読むことの出来る本は大体3万冊だそうである。この計算方法自体が有効かは別にして大体のところこのぐらいであろう。しかし三万冊というのも非常に少ない数字であるように思える。これは一日一冊読むと仮定しての冊数であるため実際のところここまでは至らないかもしれない。ほんとに少ないのである、一生に読むことのできる本は。関係ないが現在の高校生がひと月に読む本は約5冊だというデータがある。この中には少年マガジンも含まれているというのであるから、わたしのように女性にもてないそれで収入も少ない男でもこの点では勝ってるもんねと自慢できる唯一のポイントとなってしまう。こういうことでアイデンティティを確立できるというのも良い世の中になったものだ。
 さて一生で三万冊であるが、やっぱりこういう雑文を書いてるようじゃあ達成できない数字であろう。いやはやほんとに焦ってくる。そういえばスタインベックも全部読んでいないしなあ。とまあ焦って本を買いに行ったりすると踏み切りで事故を起こすものなんである。その本はやっぱり「怒りの葡萄」だったりして。だったりしてってなんちゅう終わり方だ!


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