其の28 世の中には


 世の中には二通りの人間しかいない。だいたいにおいて区別をするというのは、区別できる事柄を対象にしているからであって、「世の中にはキレンジャーしかいない」などと区別してみるとカレー好きの九州人以外の人間は何処に区分されるのか不安である。また「世の中にはマンガの好きな人とマンガさんしかいない」などと言われるとマンガが好きでなければマンガさんということになってしまい、いきなり唄いださねばならぬので困るというものである。そしてゲタさんの立場はどうなるのだ。ついでにパクさんの渾名の由来はどこからきているのだ。
 「世の中にはソクラテスと豚しかいない」。これではソクラテスは既にいないのだから、ソクラテスではない人、つまり全世界中の人が豚ということになってしまう。勿論「豚のような人」というのも存在しているし、また名前がソクラテスさんの人、そしてソクラテスのように妻が恐ろしいという人もいるのだから、分類方法はあながち間違いではないのだが、殆どの人は不快感を示すに違いない。そして己はどこに分類されるか大いに悩むところでもある。
 「世の中には二通りの人間しかいない」。この段階では区分がどのようになされるかまだ示されていないので、一応正しい表現であるといえる。そしてこの後に続く分類は一方が肯定的事項であり、他方がその否定的事項であればまず間違ってはいないはずである。そしてちょっと穿ったことをあげれば、なんとなく意味深で世の真理をついているような気がするものであるし、そしてなにより自分が賢くなったような気がする。
 「世の中には人間でない人と人間でない人でない人とがいる」。油断は禁物である。上記のセオリーに忠実なのだが、何のことか解らない上、「人間でない人」とはいかなる人であるのか判然としない。そしてその否定的事項の「人間でない人でない人」というのはもう何のことだか解らないのである。やはり前項は単純に行為や物質や趣味や雰囲気や性格などを入れ、そして後ろにはその否定的事項を入れるのがよいのであろう。
 「世の中にはかつらの人とかつらではない人がいる」。なんとも微妙な表現である。これは全ての人間の頭髪が無くなっているというのが前提条件になってしまっている。これでは全ての人間を分類するのは不可能であるし、強引に分類されても、「俺は禿げじゃないずら」と不満に思う人が出てくるであろう。やはりありとあらゆる人間が含まれている前提条件の元で行わなければならない。
 「世の中には子供と子供でない人がいる」。これでは当たり前である。目的の人間考察という要素が抜けてしまっているし、これを大声で言ったところで「当たり前だ」という声しか帰って来ないのである。それにこのことを言ったところで自分が賢くなったような気がしない。かえって他人からの評価が下がるであろうし、自分自身の知性が信じられなくなってしまう。だから当たり前ではいけないのである。ちょっと変わったことでもって分類しなければならないのだ。
 「世の中にはふぽけいひゅはな人とふぽけいひゅはなでない人しかいない」。変わっていればよいというものでもない。こういうのは困る。やはりある程度定義のはっきりした、誰もが大体のことがわかる事象でなければならないのである。
 「世の中には邪悪なる悪魔の申し子と邪悪なる悪魔の申し子でない人がいる、エコエコアザラク」。こういうことを言われたら、そうですかと首肯して一目散に逃げなければいけなくなる。
 「世の中には草履を頭に乗せる人と草履に頭を乗せられる人がいる」。たしかに前者と後者は反する関係にあるのだが、どことなく不安になるのはどういうことだろうか。もしかして草履を乗せるのがまずいのかもしれない。そして乗せられる人というのはもっとまずいのかもしれない。
 「世の中にはセポイの蜂起とセポイの蜂起でない」。断言は最もいけないのである。断言されても困るし、当初の目的の人間の分類という目的から大きくはずれてしまっているのである。
 さてわたしが最も気になる分類は「世の中にはこの雑文を気に入って読んでいる人と読まずに食べる人がいる」であるのだが、勿論わたしは前者であるのだが、後者の方が圧倒的多数である。読み返してみたが、たしかに読まずに食べてくれた方がいいのかもしれない。


[前の雑文] [次の雑文]

[TOP]