其の38 アレ


 どうも他人との意思疎通がはかれないことがある。わたしという生き物にはまったく人の話を聞かないという性質があって、そのくせ適当な相槌をつくのがうまいという生態もあるのである。更に他人に質問するというのがお家の恥とさえ思っている男なのだから相手の話をしている内容がわからないときでも、うん、そうですねえ、そうそう、さすがですねえ、いやいや御謙遜をなどと言ってしまうのである。甚だ失礼な奴である。こういうのは普通は相手によって態度を変えるのが市井の民というべきものなのだろうが、わたしは困ったことに誰に対してでもそういう態度をとってしまうのだ。別段他人に対して尊大であるのではなく、只ぼうっと生きているからであるのだが、仮に将来紫綬褒章とか勲一等を授けられたりしたときでも恐れ多いことに天皇陛下に対して同じ態度を取ってしまいそうで非常に怖いのである。
「カレーがお好きなようですね」
「あ、はあ、そういうことになっておるのですが、甚だ遺憾であります」
「どういった種類のカレーを食されるのですか」
「そういったこともあれですが、この度は目出度いことでござりまする」
「あ、そう」
 などとなって右翼に刺されそうで怖いのであるが、ま、杞憂ではあるか。しかし何が理由で天皇陛下に会うのだろうか。カレーを日本一沢山喰ったで賞とかか。
 今上さんに対してもそんな態度をとりそうなわたしであるのだから、いわんや上司にさえもそういう態度を当たり前のようにとってしまう。そのときはたまたま校内暴力についての話題であったようだ。
「そこでアレはどんどん低年齢下しているようだね」
「あ、そうなんですか、アレはそうなっているんですか」
 もうこの段階でこのアレという指示代名詞が何であるか全く解っていないのである。
「それで、昔のアレは全体の三分の二が中学三年生であったのに対して最近では三分の一にまで比率が下がってきているとニュースで言ってたのだよ」
「はあ、それは大変なことですね。アレもそうなってしまいましたか」
「わたしの中学時代はそういうアレはなかったが、君のときはあったかね」
「え、ええ、あったような気がします。アレも大変でしたから」
「ほお、大変だったのか、君の学校のアレも」
「ああ、そう、そうでした。そりゃ大変でしたよ。アレは」
「君はどちらかというとアレに参加していたタイプなのか」
「まあ、どちらかというとアレのタイプでしたから」
「ほお、そうは見えないが、そうだったのか。見掛けによらないものだな」
「そうですか」
 と会話が続いていったのだが、最後にわたしの「アレは美味いっすね」という言葉で上司はわたしがまったく話を聞いていなかったことに気付いたのであるが、しかしこの指示代名詞であったと思っていた「アレ」は実は校内暴力の「荒れ」であったのである。まったくもって紛らわしい「荒れ」だ。要らぬ恥をかいてしまったぢゃないか、アレよ。
 さて職場には、今となってはかなり古くなってしまっている「書院」というワープロがあるのだが、このワープロは非常に使い勝手が悪く、いちいち少し前に使った文をそのまま記憶させて、たとえば、「お」などと打ってみるといきなり「お」ではじめた文章が変換されてしまうのである。であるから油断して雑文なんかを書いていると、その変換される文から仕事に関係のないことをしていたとばれてしまうのである。このことを知ってはいたのだが、だからといってその記憶させてしまった文を消してまわるのも面倒であるので、放っておくことにしている。たまたま今日ワープロを使う作業があったのでキーボードを叩きはじめたのだが、そこに変換される文に驚いて目玉が飛び出る思いをしてしまった。
 「お」 
 「男だらけの水泳大会」「男だっていいものなのよん」「おいどんは九州男児たい」「おまけのおまけはプリンセスプリンセスは倉田まり子じゃないのだ」「おっけーおっけー大おっけーなのよーーん」「オリエンタルカレー……か」「お菊さん、怖いあるよ」
 なんじゃこれはと非常に驚いたのであるが、確かこのワープロを最後に使ったのは上司のはずなのだ。いやいやあの落ち着いたナイスミドルの上司に限ってこんなことを書くはずはない。もしかするとわたしであろうか。まったく覚えがないのであるが、それ以上に自分がどんなことを書いているかを覚えていないだけに非常に不安である。そこで最後に使った日付を調べたところ、わたしではないことが判明した。ほっとしたのだが、しかしあの上司がこんなことを書いていたなんてまったく信じられないのである。そして仕事を続けていると、「せ」というのを変換する機会に恵まれた。その「せ」を変換してみると、
「精神的に疲れたのが理由でありますが、今月一杯で退職さ」と出てきたのだが、これで先程の「お」の変換についても納得できるというものである。
 しかし結局話の頭と後ろが結び付かなかったのが、ちょっとアレであるなあ。(詠嘆)


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