其の100 百回目の審判


 ノストラダムスが書いた「百詩篇」という書物の中に何でも恐怖の大王が降りてきて地球は滅亡するだのということが書いてあるという。ラテン語どころかフランス語どころか標準語すら扱えないわたしであるから原文を読んだわけではないのだが、恐怖の大王アンゴルモアが滅ぼしにやってくると書いてある、と聞く。しかしである。よく解らないのである。その滅ぼしにくるとか、滅ぼされるとかいうのが。地球を破滅させるとか言われてもねえ。唯一わたしのイメージの中にある地球破滅は「ドクタースランプ」の中に出てくるニコちゃん大王がUFOで火星を一発で爆破させたもので、非常に貧困なのであるが、さりとてそのような滅亡であっても別段恐怖を感じることもないので、色々と地球滅亡について語られているのを聞くと鼻で笑って茶まで沸かしかねない勢いである。つまりはまったく信じていない。もしかしたら、などという迷いすらなく一九九九に起るというカタストロフィについて否定する者である。
 仮に百歩譲って、いや万歩譲ってピカチュウが自転車に乗ったとして恐怖の大王がやってくるとしよう。そして人類は破滅するとしよう。だとすれば人類という人類が居なくなるわけで、あの娘もあの娘もあの娘も居なくなるわけで、そしてわたしも居なくなるわけである。何が怖いというのだろうか。皆一緒ではないか。一瞬にして何もかもなくなるというのなら恐怖も何もないではないか。恐怖の大王がわたしの前にやってきて「まずね、あなただけね、種も仕掛けもないね、ほんとは後ろにあるんだけど内緒ね、滅ぼしちゃうね」などとマギー司郎口調で言われればかなり嫌だが、それでもそれは順番だけであってその後「やっぱ飽きたからやめとくわ」と帰ってゆかなければ別段構わないように思える。
 このように色々な局面でわたしは力説するのであるが、それでも「人類の破滅」とやらは皆の恐怖感を煽るらしい。特に小学生や中学生などは最近の漫画に毒されているのか、その手の話になると普段見せたことがないくらい真剣な眼差しでどうしたら破局を回避できるか、もしくは穏やかな心持ちで大破局を迎えることができるかなどということを語りだすのである。そして何故かわたしに「ほんとうに、人類って破滅するの?」などと痴呆面して質問するのである。
「ぜったいない。ほんとうだ。一九九九は何となく世紀末と言われているが本当の世紀末は二千年だ。二十一世紀は二千一年からだ。騙されてはいけない」
「そのことじゃなくてさ、人類が滅ぶかどうかってことだよ。ほんとに来るの?」
「百パーセント来ないし十割来ないし、絶対来ない。断言してやる」
「でもみんな言ってるよ。恐怖の大王だとか」
「そんなの嘘だ。それにみんなって誰だ。取り敢えずわたしは言っていないからみんなというのは間違っている」
「それはいいけどさ。じゃあどうして来ないって言えるの?」
「そこだ。大体一九九九年というのがキリスト教徒の傲慢さが現われている。西暦を使っていない国ではまったく意味がないではないか。因みに日本では皇紀二千六百五十八年だ。たしか。これをみてもあんな予言は嘘っぱちだ」
「でもノストラダムスの予言て全部当たっているって言うよ」
「それも嘘だ。あんなのどうとでも解釈できるし、大体なんだ。終わってみてからあの予言は当たってたというのは卑怯だ。わたしは卑怯者の言うことなど信じない」
「当たってないというのはほんと?」
「ああ、だいたい噂によるとあの書物には西暦三千年以降のことまで書いてあるというではないか。それから考えてみても一九九九年の破局は起らないとは思わんか。そしてわたしは自分が死んだ後のことまで心配するよりも今月のカードの支払いを心配する人間だ」
「そうなの。無駄遣いし過ぎだよ」
「ま、それは兎も角だな。君は心配せず呑気に生きなさい。そんな人類だとか大仰なことよりも自分の身の回りのことを心配する方が大事ではないかね。取り敢えず君は今課題を忘れて残されているのだから、それをしっかりしたまえ」
「そうだけど……」
「ああ、じれったい。解った。わたしが保障しよう。人類滅亡は一九九九年に起らない。もし起ったら十万円でも百万円でもやろうではないか、君に。これでどうだっ」
 とここまで言ってようやく納得するのであるが、しかしカタストロフィの起きた後で如何に金を受取に来るのかはわたしの知ったことではない。
 ところでノストラダムスとは別にヨハネの黙示録というものもあって、ユダヤ教を元にしている宗教には最後の審判という思想があることが多いのだが、これとの絡みもあって人類滅亡というものが色々と巷間で語られる要因であろうか。しかしそういった宗教とは無関係のわたしからすれば最後の審判という考え自体がどうも信じられない。例えばある宗教では戒律を遵守し信仰を守れば最後の審判の際生き延びることが出来ると言うが、どうもそんなことだけで選ぶというのがピンと来ないのである。最後に選ばれるか選ばれないかという基準が大雑把なような気がするのである。どうせならば恐怖の大王にしろ最後の審判にしろ、人類五十五億人、一人一人の行動を逐一観察して「うーん、その駄洒落は駄目、マイナス三点」「ようし、そこで空き缶を拾ってごみ箱に入れるなんて、ナイスボーイ、プラス八点」などと細かく採点した結果マイナスが出ればカタストロフィ、プラスであれば滅亡中止などというように基準を解り易くしてもらいたいものだと考えたりもする。そこでであるが、雑文を百も書き散らすのは彼らの基準によればどちらなのだろうか。おそらくマイナスなんだろうな、役に立つもんぢゃないし。ということでわたしが雑文を書き散らすのは人類滅亡への一歩であるわけだが、所詮そんな最後の審判だの恐怖の大王だのということを毫も信じていないわたしであるから、そんなことよりも読んでもらっている人の審判の方が気になっているのである。
 これからも御愛顧の程よろしうに。


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