其の105 お前の方こそ心配だ


 人というのはあまりに常識的だ。葬式の焼香の際何をすれば良いか解らなくてうろたえてしまうくらい常識のないわたしは兎も角、世の人というのはわたしが思う以上に常識的過ぎて将来が心配である。これからの二十一世紀、どんなことが起るか解らないし、これまでの価値観を引きずったままでいるのは危険であるともいえよう。身近な人間を例にとればわたしを除く家族全員が確固とした自分の考えで行動することなく、その行動はあまりに常識的なのだ。
 わたしの部屋には沢山の物が置いてあり、それは書籍の類であり、コンパクト・ディスクの類であり、ギターの類であり、コンピュータの類であり、社会人の類であるなりなのだが、その状態を見て母上父上妹君が「汚い」と言う。「そんな部屋で生きているなんてどうかしている」とまで言うのだ。そこで生きているわたしの前でいうのだから、彼らの価値観からすれば「汚い」という範疇に属する状態なのだろう。しかしそこで生活しているわたしは別段汚いとは思っていないのだから、これはもう文化の違いというべきではないか。こんな話がある。ある人がインドへ旅行へ行った。その人がレストランに行くと、床にグラスが並べられている。テーブルに座りアイスコーヒーを注文すると、レストランのボーイは床に並べてあったグラスをひょいと取ってそこにコーヒーを注ごうとしたのである。慌てたその人はすぐさま英語でグラスが汚いから奇麗なグラスにコーヒーを注ぐよう頼んだ。するとそのボーイは自分が着ているボーイの制服の裾で外側をひと拭きすると、これ以上ない程の笑顔でそのグラスにコーヒーを注いだのである。この話から解ることはインドのボーイの笑顔は素晴らしかったということである。それはさておきわたし以外の家族はわたしの部屋を汚いと決めつけるのであるが、ここに常識に阿った精神的な脆さを感じるのである。おそらく彼らはわたしの部屋を見てこのような思考展開をしたと思われる。
(1)部屋の家具を覗いた部分の面積が異様に狭い。
(2)それは所定の場所に納められるべき物が床に散乱しているからだ。
(3)その上カールの空き袋など食物が入っていたゴミと分類されるべきものも床に落ちている。
(4)洋服も床の上に置いてありうっかりそこに乗るとパキッとコンパクト・ディスクのケースのようなものが割れる音がする。
(5)これではうかうか勝手に部屋に入って漫画を読むことなど出来ない。
(6)この部屋は汚い。
 おそらくこのような思考過程を経た後での発言が「どうかしている」ということなのだろう。しかしテレパスならぬわたしでさえ「汚い」へ至るまでの思考過程を読めるのであるから非常に浅い思考であると言えよう。更に(2)の床に散乱しているという時点で「この部屋は汚いのではないか」という疑念がほぼ確信に変っているに違いないこともわたしには読めるのである。彼らの価値観では「散乱」=「汚い」という図式が成り立っているのであろう。これは普段の家族の行動から考えて自ら培った価値観ではないことは解る。誰とも解らない他者が何となく決めてしまっている価値観に従っているという点でわたしは家族が精神的に脆い人間であると感じてしまうのである。もう少し色々な尺度から考えてみれば、この部屋の状態が単に「汚い」という言葉ですまなくなることが解るはずだ。たとえば「非常に物持ちが良い」と考えてみればどうだろうか。その物がゴミかどうかを規定するのは当人に任せられている問題であるので、わたしがカールの空き袋などを「保存している」ないし「短期間ではあるがコレクションにしている」と言い張ることで部屋においてあるわたしを含めたあらゆるものがゴミでなくなるのである。こういった可能性を無視して「散乱している」=「汚い」という図式通りの解釈しかできないのでは、激動の二十一世紀を乗り越えてゆけるのか心配である。
 勿論、家族ばかりではない。世の多くの人が精神的に脆いのである。たとえばテレビの刑事ドラマなどで、犯人が逃走しているのを刑事が追いかけているとする。
「待てー」
「待てと言われて待つもんかい、へへへ」
 しかしやはり犯人は追い詰められるのだ。刑事に羽交い締めされる犯人。刑事を振り払おうと抵抗するが刑事の力が勝り結局腕を取られ手錠をはめられる。がくっと頭を垂れる犯人。パトカーに乗せられる犯人。一件落着である。しかしわたしはここでもこの犯人と刑事の精神的脆さを感じるのである。どちらも自分で培った価値観で行動していないのである。犯人は犯人で「手錠をはめられる」=「観念」という図式通りの行動だし、また刑事は刑事で「手錠をはめる」=「逮捕」という図式通りの考えに囚われているのである。手錠くらいで暴れるのを止めたりするのはおかしいし、手錠みたいなものをかけたからといって逮捕だと考えるのは早計ではないか。手錠というものの呪術性を犯人刑事共に認めて、それにはまった思考しか出来ないのではわたしに精神的な脆さを指摘されても仕方ないのではないか。もっとあらゆる角度から犯人捕縛というものを考えるべきなのだ。
 たとえば手錠ではなく指輪だったらどうだろうか。ダイヤの指輪であり、刑事の給料の三ヶ月分だ。犯人を取り押さえる刑事。抵抗する犯人。刑事は懸命に腕を取りそして指を開かせ指輪をはめる。「僕と一緒に留置所に入ってください」。これはどうだろうか。これでも犯人捕縛と言えるのだろうか。単に手錠が指輪に変っただけである。逃げることもた易い。それでもこの犯人が「指輪」=「観念」という考え方に陥っているならば犯人は観念して「幸せにしてください」と言うに違いないのである。ここにも己で培った価値観などないのである。
 また手錠の代りにブラジャーだったらどうだろうか。フロントホックのDカップだ。ほんとはEカップなのだが年頃の刑事は大きなカップに恥じらいを感じるのである。犯人を取り押さえようとする刑事。抵抗する犯人。羽交い締めしながら犯人にブラジャーを着けようとする刑事。もし背中にホックがあるのだったら上手く着けられなかったかもしれないな、ちょっと高かったがフロントホックにして良かったと思いながら「どうだ、ブラジャーをつける気持ちは」という刑事。「少し大きいんじゃないか、俺は小振りなのが好きなんだ」と呟きながら観念する犯人。留置所から裁判所へ運ばれる途中報道陣のカメラのフラッシュをあびる中腕をクロスさせてブラジャーを隠しながらパトカーに乗り込む犯人。これはどうだろうか。これでも犯人刑事が「ブラジャー」=「観念」、「ブラジャー」=「逮捕」という図式に陥っているならば犯人捕縛だというのであろうか。
 このようにあらゆるものは様々な角度から考えてみて初めて解るものがあるのである。部屋の中に物が多いからといって部屋が汚いと判断する人はあまりに常識に囚われ過ぎた精神的に脆い人間なのである。こんな視野狭窄ではこれからの日本で生きてゆけるのか心配である。だからこういった雑文を一読し「面白くない」と判断するのは早計である。そういう常識に囚われた考え方ではビッグバンだのグローバルだのといった世界を生きてゆくのは困難であろう。あらゆる角度からこの雑文を読むべきである。そうすれば少なくとも「犯人逮捕にはフロントホックのブラジャーの方が都合が良い」ということは学べるはずなのだ。


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