其の125 魔物がいる街


 これからの話はほんの一時間程前のことである。
 いつもより早く仕事を終えたわたしは直に家に帰るのも何だか気が進まなくて、食事でもしてから帰ろうとしたのだが、時間も時間であるから、開いている店と言えばファミリーレストランか吉野家といったところしかなく、どうしようかと考えていると、どうやら胃袋が今日はカレーを喰えと言っているようである。昨日も一昨日もわたしの胃袋はカレーを喰えと言ったのだが、その希望を叶えることができなかった為か、今日はかなり激しくカレーを欲しているようなのである。カレーを喰わないとお前の胃袋をやめてしまうぞ、そう脅迫しているようにも感じられる。別段カレーを喰って困ることもないので、早速大阪は十三に車を走らせた。向かうは松屋である。カレー屋というのはラーメン屋に比べるとどういう理由だか解らないのだが、深夜に営業している店が少ない。我が愛しのカレー屋インディなどは繁華街から離れているからか夜の十時には閉店してしまう。ちなみにラストオーダーは九時三十分である。揚げ物などを喰いたいと思えば更にもう少し早めでなければならない。であるから好きなものを思う存分喰いたければ最低限九時までには入店しておいた方が良い。そんなことはどうでもいいのだが、つまりカレーを喰いたいと思えば早めに計画をたてておかなければならないということである。そこで松屋である。松屋は吉野家とよく似た二十四時間開いているチェーン店なのだが、有り難いことに牛丼だけではなく定食といったものがある上、更にカレーもあるのである。あの松屋の店構えは世のカレー好きにはあたかも夜の海を照らす燈台のように感じられるのである。
 カレー講釈はここまでにして本題に入ろうと思う。カレーを喰って店を後にし、さて帰ろうかと車を駐車してあるところまで行く途中、泥酔の為か倒れている人がいるのを発見した。金曜日の夜ということで世間では明日休みであるから別段珍しいことではない。何よりここは大阪の十三である。あのリドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」の舞台になった街である。そういえばわたしが十三近辺の高校に通っていた頃、ちょうど撮影があったということである。後にそのことを知って悔しい思いをしたのだが、実際の映画に映っている十三の街並はアメリカでセットを組んだものであるから実際とは違ってかなり格好がよく、十三を知る者としては何だが嬉しいような哀しいような複雑な気持であった。それは兎も角、十三という街は「怪しい」「いかがわしい」といった形容が似合う街なのである。そんな街であるから泥酔した揚げ句、そのまま歩道に眠りこけていてもそれは珍しい光景ではない。しかしである。その泥酔者は見たところ若く頭髪は茶色であり、普通の泥酔者とは若干異なっていた。いつもならば通り過ぎるところだが、見ると自転車が倒れておりその上に頭を乗せているのである。流血はしていないのだが、数台の自転車が倒れているところから考えるとかなりの勢いで自転車に向かって倒れたようである。これはただの泥酔者ではないのではないか。もしかしたら誰かに殴られてのびているのはないか、わたしがそう思ったのも自然ではないだろうか。わたしとは無関係の人間だが、それでもそのまま通り過ぎるには忍びない。せめて意識があるかないかだけでも確認した上で立ち去りたい、もし危険な兆候でもあればすぐに警察か救急車を呼ばなければならない、そう考えたわたしは間違ってはいないはずだ。そこでその人物に近寄り声を掛けた。
「もしもし」
 こういう場合最初に何と言って声をかければ良いか困るのだが、それは兎も角ただの酔っぱらいであれば何らかの反応があるだろう。そう思って声を掛ける。しかし反応はない。ぴくりとも動かないのである。そこで背中のあたりを軽く叩き反応を待った。それでも反応がないのである。これは危ないのではないか。そう思って更に背中を叩く。大丈夫ですか、大丈夫ですか、そう言いながら叩いたのだが、まったく反応がないのである。これは救急車を呼ばなければ、そう思った瞬間、いきなりわたしの顔面にかなりの勢いで何かが迫ってきた。咄嗟に右腕でガードし、すばやく振り向く。何者かがわたしの髪の毛を掴み思い切り蹴りを入れてきたのである。しゃがんでいた体勢であるから蹴りがちょうど顔面あたりに向かってくる。危ない、咄嗟に両腕でガードする。キン肉マンでいうところの「肉のカーテン」である。これも幸い腕に衝撃があっただけでヒットはしていない。武道に心得はないもののうまく避けることができた。状況がまったく解らない。本能なのか、中腰で顔面をガードする体勢をする。ファイティングポーズとでもいうのか。ここで初めてわたしの蹴りを入れてくる者の姿を腕の間から見ることができた。わたしよりも若く、何やら凶悪そうな顔つきである。
「おらあ、なにしとんねん。俺の女に、なにさらしとんねん」
 そして更にわたしに向かって蹴りを入れてくるのである。右腕でうまく防御する。何を言っておるのか解らない。女? うつぶせで倒れていたのだから女性かどうかなど確認などしていないし、ショートカットだったから勝手に男だと決めていた。女だったのか。しかしそんなことはどうでもいい。兎に角わかっていることは男がわたしを叩きのめそうとしていることである。何の前触れもなく顔面に蹴りを入れてくるような人間だからかなり喧嘩慣れしている上、狂っているとしか思えない。これは危ない。喧嘩には自信がないが、そこそこの体格であるから殴りあいになったところで完全に叩きのめされることはないにしても、ある程度のダメージを覚悟しなければならないだろう。それは困る。仕事上顔に傷がつくのは避けたい。そこで腹に力を込めて防御の体勢を取りながら脱出を図る。狭いところに追い込まれているので闇雲に相手にぶつかって失敗したりすると目も当てられない。チャンスは一度だけだ。男が蹴りを入れてくる瞬間、思い切りぶつかれば何とか脱出できるかもしれない。次の蹴りのタイミングをはかって思い切りぶつかった。一発顔面に蹴りが入るが何とか脱出に成功する。足の甲が額の左の方に当たり、爪先が左の目の付近に当ったようだ。しかし先程までの状況からするとかなり動けるところに出ることができた。しかし執拗に男は攻撃してくる。
「おらあ、いい加減にしとけ、なにさらしとんねん、殺したろかあ」
 左足から繰り出される蹴りを鞄で避けようとしたところ、鞄が手から離れる。落ちた鞄を男は蹴り飛ばす。自転車の倒れている間に鞄が入り込む。最悪だ。いくら状況が状況だとはいえ、鞄をこのまま放っておいて逃げるわけにはいかない。後で考えると鞄の中には数冊の本と印鑑と今日思いついた雑文のネタを書いた紙切れしか入っていなかったのであるが、何故だか放っておくことが出来なかった。距離にして二三メートル。それでもかなり遠くに感じられる。男との距離は約一メートル。そのときのわたしは何を考えていたのか、鞄を取りに行かなければと思ったのである。馬鹿げた選択だと今になって思うが、そのときのわたしにはそれしか考えられなかった。こちらからも攻撃することも決意する。気合いを入れ、そして男が攻撃してくると男の足めがけて右足を思い切り回転させる。男の足にはヒットしなかったのだが、幸運なことに男の股間に爪先が当った。一瞬男に苦悶の表情があらわれる。しかし興奮しているからだろう、男は攻撃をやめないのである。やはり股間への攻撃が効いているのか、男の動きが鈍ったところをついて鞄を拾うことに成功する。そして相手を見据えながら素早くその場所から離れる。男との距離が三四メートルになったところ、今度は自転車を持ち上げ、わたしに向けて投げつけてきたのである。流石にわたしのところまでは飛んで来なかったものの一瞬足が止まる。更に攻撃を加えようと男がわたしに向かってくる。わたしはよろめきながら後ずさり、そして五六メートル空いたところで男を背に逃げ出した。
 まったく何が何だかわからないのである。しかし左の目の付近にじんじんと痛みが伝わってくる。やはりこれは警察に行って何らかの処理をしなければならないのではないかと、近辺をうろつき交番を探した。到着すると繁華街の交番らしく五六人の警察官が待機しており事情を話すと早速四人の警察官と一緒に現場へ向かうことになった。現場へ向かう途中警察官におどけながら「別に怪我という程ではないんですけど、やっぱり被害届を出した方がいいとおもったもので」などと話すと警察官の一人が笑いながら「何ゆうてんねん、おにいさん、目から血でとるで」と言うのである。血の気がひいてゆくのがわかる。目から血が出ているのに血の気がひくとはどういう表現だかわからないのだが、この言葉で、さっきのストリートファイトが如何に危険なものだったか改めて知ったのである。
 現場に到着すると倒れていた女性と男は既にいなかった。いくら狂っているとはいえ、わたしが警察に行くことくらいはわかったのであろう。誰もいない通りを前に四人の警察官とわたしが立ち尽くしていた。
「ええと、とりあえずな、おにいさんの名前と住所、それと電話番号教えといてんか」
「え? これで終わりですか」
「ううん、一応この近辺見回るけど」
「じゃあ被害届なんかはどうしたらいいんですか」
「被害届はなあ、診断書が必要やから。病院行ってもらってきてくれんと」
「それでこれからどうしたらいいんですか」
「まず病院行ってもらって明日にでも刑事課に届けてんか。取り敢えず今日は気をつけて帰りや」
 何だか拍子抜けである。これからわたしを同行して捕り物が始まると思っていたのだが、警察官が自転車で見回るだけなのである。それでは相手の男は誰だか解らないのではないかと思うが、わたしを残して警察官たちは自転車で走っていってしまった。
 救急病院で診察してもらったところ顔は腫れるが大したことはないとのこと。腫れを抑える薬をもらって家へと車を走らせた。
 しかし十三は魔都だと改めて認識した。やはり呑気にカレーなんぞを喰う街ではないのである。善意から出た行動がこんなことになるなんてちょっと納得がいかないのであるが、世の中には話してわかるような人間ばかりではないのだから、これからはもう少し気をつけなければならない、などと考えながらこの雑文を書いているのである。そしてどういうわけかストリートファイトからずっと頭にあったことは「これで雑文が一本書ける」ということであり、如何に己の思考が歪んだ方向へ向かっているというのも改めて認識しているところである。


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