其の138 叫びゅ


 先日ある二人の主婦を見かけた。この二人の女性はわたしが直感的に主婦だと感じただけで、実は主婦ではないのかもしれないが、取り敢えず主婦だということにする。彼女たちはそれぞれジャージとジーンズという格好であり、時間もだいたい昼の一時過ぎ、そして場所はケンタッキーフライドチキンの前であることから、おそらく先程まで鶏肉を食していた主婦であろうと思われる。彼女たちは店の前で何やら立ち話をしている。信号の前で立ち止まっていたわたしの近くであったのだが、車道を走る自動車の音に紛れて二人の会話ははっきりとは聞こえない。しかしそれでも時折「主人が……」だとか「子供って……」と聞こえる。しばらくすると二人は立ち話に飽きたのかそれぞれ帰宅する模様である。一人はわたしと同じ方向へ、そしてもう一人は反対側へと歩きだそうとしている。しかし突然何か思い出したのか、わたしと同方向へと向かう主婦が向こうへと歩いてゆく主婦を呼び止めたのである。
「そうそう、今晩のおかずやけれどー」
 二人の距離はだいたい三十メートル。少し声を張りあげれば聞こえる範囲である。その声に気づいた向こう側の主婦は振り向き、そして「ええと、さっき鶏食べたし、今日は魚にでもしようかなあ、って思ってるけどー」と声を返した。ここで二人は何を考えているのかわからないのだが、それぞれ目的地へ背を向けながら、ゆっくりと後ろ歩きをしだしたのである。つまり後ろ歩きのままお互いに話をしているのである。おそらくは一旦帰ろうと決めた為、そこで立ち止まれなくなったのであろう。ゆっくりとだが、二人の距離は広がる。
「うちも、魚にしようかなああ、どっかに特価出てたああー」
「駅前のなああ、スーパーーで、かつおー」
「えええええ、スーパーーーー?」
「そうーーー、かつおがーー」
「んんー? しょうがーー?」
「違うーーーー、かつおがーーー」
「ええええ? さつきがーーー?」
「ちゃうちゃううー、ええっとー」
「ええ? ひょっとこーーーーー?」
「違うっちゅううねん、かつおーーー」
「ああ、わかったーー、かつおーーーー」
「そうそう、かつおがなああ、今日なああああ、スーパーーーーでなあああ、特価でなあああ」
「そうなんんんんんん、じゃあああなあああああ、後でなあああああ」
「ええ? きこえへんーーー」
「一緒になあああああああ、スーパーーーーーーになあああ」
「ああ、わかったあああ、じゃあああ、何時ーーーー?」
「五時ーーーー」
「えええええええ? くじらああああああああ?」
 既に百メートルは優に離れている。
 ここでわたしの方にいた主婦はふと思いついたようにジャージのポケットから携帯電話を取り出し、そして向こうの主婦へ電話をかけたのである。そして二人は先程までの会話の続きを始めた。多分「かつお」について語っていたことだろうと思われる。ところがこの後の二人の行動にわたしは面食らってしまった。
 二人はお互い歩み寄ったのである。携帯電話で話しながら徐々にお互い元の場所に戻ってゆくのである。どういうつもりなのだ。大声で話しているときは徐々に離れてゆき、そして携帯電話で話しながら近づいてゆくのである。不思議な感じがするのはわたしだけではあるまい。
 そして二人は元の位置に戻り、そして携帯電話をポケットにしまい、再び立ち話を始めた。
 ここでわたしが考えたのは、何も遠隔地で会話をするのに適した携帯電話とより近い方が聞こえ易い肉声との使用方法の違いについてではない。やまびこのことである。
 やまびこというのは山に向かって大声を出してその反響を確かめるという行為である。しかし大人が大声を出しているのは、何となく馬鹿にみえはしないだろうか。これまで薄々感じていたのだが、先程の主婦の行動をみてそれが確信に変わったのである。
 大声を出すということはより相手に自分の意志を伝達しようとするあらわれである。はっきりと相手に伝えようとする親切心のあらわれでもある。しかしどうも大人が大声を出すということは何となく馬鹿に思える。反対に子供が大声を出すというのは日常である。彼ら子供はふと大声を出してみる。
「ふぎゃあああ」
 まったく意志を伝達しようとか相手にはっきり聞かせようという親切心などないにもかかわらず、子供というのは大声を出す。
「バイバイーーーーー」
 彼ら子供は別れの挨拶ですら大声で確かめあうのである。つまりここには日常がある。彼ら子供の大声は日常のものなのである。しかし大人の大声となるとそう単純なものではない。
「ではーーー、来週のーーー、月曜日ーーー、あさーー 十時にーーー、新製品のおお、企劃会議がああああ、ありますうううのでええ、資料のおおお、準備ーーー、よろしくうううう、おねがいしまあああすふううううう」
 たとえ中身が「かつお」でなくともこれではまるっきり馬鹿である。
 そして大声は危険でもある。聞き間違えるのである。先程の「ええっと」が「ひょっとこ」に間違われる可能性をも秘めているのだ。いくらこちらが真面目に誠意をもって大声で話したところで間違えるものは間違えるのである。
「ええと、流石先輩ですね」と相手を持ち上げる内容であっても、大声はそこに込められた気持など無視するのである。
「ええっとおお、さすがあああ、せんぱいいいいいい、ですねえええええ」が、
「ひょっとこお、さるがあああ、おっぱいいいいいい、エステえええええ」になってしまう可能性を含んでいるのだ。
「ひょっとこ猿がおっぱいエステ」とは大人のする発言ではない。こういった危険性を孕んでいるにもかかわらず、いっぱしの大人が大声で話すという意志伝達方法を選択するところに、大声が馬鹿にみえる原因が潜んでいるのかもしれない。
 また大声は反響する。大声を出す場所によっては大声は反響するのである。やまびこだってその一種である。
「ちからとんおんおんおん、わざとんおんおんおんおん、だんけつとんおんおんおんおん」
 小さな声で呟いてみて欲しい。「ちからとんおんおんおん、わざとんおんおんおんおん、だんけつとんおんおんおんおん」をそのまま素直に呟いてもらいたい。「わざとんおんおんおんおん」あたりでかなり自分が愚かなことをしているように思えるはずである。小さな声であっても間抜けに思えることを相手に聞こえ易いようにと大声で話すとは正気の沙汰ではない。
 そして大声は枯れる。特に長いこと大声で話すと喉がやられる。小一時間も大声で話すと最後の方は声が出なくなってくるのである。
「であるからしてええ、ここの角度とおお、ここの角度がああ、等しいとお、わかるのですねええ、げへげへげへ」
 咳き込んだりもするのだ。長時間大声を出していると。こんな結末は誰にでもわかることである。子供はまだしも分別のある大人なのだから大声を出しつづければ最後には咳き込むくらいはわかっているのだ。それにもかかわらず大声を出すものだから、これはもう自ら破滅への道へと向かっているも同然である。自ら破滅への道を歩むものはある種馬鹿にみえても仕方ないのである。
 そして更に考えてみて欲しい。大人が一人公園のまんなかに立っている。直立不動である。そして大きく息を吸い込む。
「からまんぼおおおおお」
 これはもう馬鹿という代物を超越しているのだ。いきなり病院に連れていかれても文句は言えない。小声であればまだしも大声なのだから文句は言えないのである。
 また大声を出して相手に意志を伝達するということは手旗信号に似ている。いや殆ど同じである。遠くにいるので普通に話しても声は届かない。そんなときに使われるのが大声による伝達手段か手旗信号である。「イ」はカタカナの「イ」の形に旗を上げる手旗信号である。一文字ごとに一旦太股に旗を当てる手旗信号である。大声による伝達と手旗信号は目的が共通しているのだからまったく同じものと考えてもよいと思われる。
 そこでやまびこである。だいたい「やっほう」と叫んだりもする。どういう意味があるのかわからない。また己の名前を叫んだりもする。いくら立派な大人であっても山では開放的になるのか、山ではついつい「やっほう」と叫んでみたりするのである。これはやはりどうかしているのではないかと思うのである。なんとなれば「やまびこ」は大声なのだ。大声で叫ぶということは手旗信号である。考えてみて欲しい。雄大な山に向かって大きく「ヤ」「ツ」「ホ」「ウ」と旗を振っている大人を。かなりどうかしているのではないか。
 山で叫ぶ人はかなり間抜けである。このことに気づかせてくれた主婦に感謝したい。そして大声を出し過ぎて喉をやられたわたしもかなり馬鹿であることもはっきりした。


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