其の145 バイバイン


 婚姻というのは一種の契約であるのであるが、しかし契約といっても契約が正式なものとなる段における条件というのは唯一「両性の合意」のみである。よほど何かがない限り事細かに双方の同意を得る必要がないようになっている。であるからして、「毎日食事の後片付けをしなければならない(夫が)」だとか「奴隷のように仕えなければならない(夫が)」だとか「小遣いは一日千円まで(夫の)」だとか「給料は配偶者のもの(夫に対する)」だとか「カレーのルーが少ないからといって文句を言ってはならない(夫が)」といった一般の結婚生活での慣行は実際に履行する必要はない。にもかかわらず現代社会において結婚生活を営んでいる者の殆どはこのような理不尽な義務を果たさずには生きていけない。フライパンやビンタが飛んできたり実家に帰られたり土下座をしなければならないのである。こういう風にわたしは結婚というものをとらえているので当然ながら結婚したいとはちっとも思わないのだが、わたしの周りの人間は何故だかわからないのだが皆同じように結婚するのである。不思議である。それもだいたいの結婚生活者は男性と女性という組み合わせで、たまには「俺ね、この間、爪切りと結婚したよ」などと無生物と婚姻している者がいても良いと思うのだが殆ど見かけない。甚だ没個性的な人間のみが婚姻をするのだと考えざるをえないのである。そして没個性的な人間だから仕方ないのかもしれないが、既婚者は皆一様に如何に結婚というものが素晴らしいかをわたしに語り始める。
「いやあ、やっぱり結婚するとね、生活がしっかりしてくるね。規則正しい生活になるし」
「結婚はするべきだよ。仕事にも張りがでるし。家族の為に一所懸命働かなくちゃという気持になるよ」
 こういう具合に語るのである。どちらもわたしにしてみればだらしない気楽な生活やだらだら仕事をこなす自由が奪われただけではないかと思ってしまうのだが、彼らは目を輝かせながら「幸せだぞお、結婚って、お前も結婚すれば変わるって」などと言うのである。二十八にもなった大人をつかまえて裏をかえせば「今のお前は幸せではない。結婚して人間を変えろ。だって今のお前は最悪だからな」ともとれる、考えてみればかなり失礼なことを平気で吐いたりするのだから、「やはり結婚すると人というのは普段にもましてわたしを馬鹿にするようになるのだ」と余計に結婚というものに対して否定的にならざるを得ないのである。あと、普通人間というのは幸せは独り占めするものなのにわざわざその幸せを人に教えようとするところが、宗教の勧誘や悪徳商法にも似ていて、この点も結婚という制度が好きになれないところでもある。
 またあろうことか結婚というものは子供を生んでもよいとされているのである。結婚は契約であるから破棄することもできるが、子供というのはそうはいかない。一旦生んでしまえばリセットすることなどできないのである。それなのに彼ら既婚者は何となく子供を生んでしまっているのだ。非常に恐ろしいことである。考えてみればわかることだ。たとえば一組のカップルが二人の子供を生んだとしよう。そしてそれらの子供たちも二人子供を生むとする。またその二人の子供も二人の子供を生むとする。するとこの段で二十代もすれば一億人もの子孫ができる計算になる。この世はそのカップルの子孫でいっぱいだ。あっちを見てもこっちを見ても同じ血をひいている人間がうようよいるのだ。恐ろしい世界である。右を見ても左を見ても親戚なのだ。最初のカップルが非常に優れた人物であればまだいい。しかしそのカップルが勝野洋とキャシー中島だったらどうするのだ。一億総キャシーである。そして一億総ぶーやんである。一億総ダイエットの繰り返しである。一億総アーバンポリス部長刑事である。恐ろしいではないか。誰が責任をとってくれるというのだ。このくらいの想像力もない人間が子供を生むなんてどうかしている。また子供のいるわたしの友人の痴呆面をみるにつけ「後世に残さなければならないくらい大した遺伝情報などもってないくせに」などとも思ってしまう。
 そしてその子供自体非常に恐ろしいものである。ここに「秋の遠足のしおり(小学三年)」という代物がある。
「当日のふくそうについての注意」
 ぼうし、長ズボン、上着、はきなれたくつ、名前を書いたパンツ。
 そうなのだ。子供というのは遠足に行ったときでさえパンツを忘れるのである。どこでどう忘れてしまう機会があるのかわたしにはまったくわからないのだが、「秋の遠足のしおり(小学三年)」にわざわざ書くくらいであるから子供という生き物はパンツを忘れてしまうものなのであろう。まったく恐ろしい生き物である。もしかしたら子供というものはズボンを通り越してパンツを瞬間移動させる能力をもった生物なのかもしれない。そんな不可解な生き物を生むなんてとても信じられない。
「やくそく」
 (1)集合、せいれつはすばやく。
 (2)ごみは自分でもってかえる。
 (3)電車でのマナーをまもる。
 (4)むきになって川に石を投げない。
 (5)かわらではむやみに川にはいらない。
 この「やくそく」からわかることは、子供というのはついむきになって石を川に投げたり、無闇矢鱈と川に入ろうとする生き物らしいということなのである。無闇矢鱈と川に入ろうとするなんてまるで子供というのは太宰治ではないか。スウプに何か、イヤなものが入っていたのかしらである。富士には月見草がよく似合ふのである。人間も、ああなっては、もう駄目ねなのである。人間失格なのである。
 またわたしの周りに徘徊する子供もどうかしている。
「ええと、北斗の拳ってね、あれどこの話なの?」
「ううむ、わからないなあ。ただ拳法が沢山でてくるからいくら登場人物が西洋人くさくても東洋のどこかなんだろうな」
「ふうん、じゃあベトナムでいいや」
 ちょっと待て、そんなことでいいのか。
 非常にアバウトな決めつけ方をするのである。
 パンツを瞬間移動させたり無闇矢鱈と入水したり石で川底をあげたりベトナムでいいやと決めつけたりするのが子供だとすると、そんな恐ろしい生き物を平気で生んでも良いと社会的に認知させる結婚というものが甚だ危険な制度だと考えるのが理性的な人間というものである。
 しかしこれほどの結婚否定論者であるわたしも子供を生む為に必要な行為自体はかなりのところ認めている。第一わたし自身大好きである。
 いい年して何言ってんだ、俺よ。


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