其の150 元気さん


 わたしにとって夏は忙しく慌ただしい季節である。そして馬鹿が増殖する時期であるといえる。
 夏の時期は普段よりも数時間早く出勤するのが常なのであるが、それは業務自体の始まる時刻が早いという理由によるものである。しかし早く出勤しているからといって帰宅するのが早くなるかというとそうではなく、通常業務以上にやらなければならない作業が多いため結局普段の五割増くらい働かされるということになる。つまり仕事場にいる時間が極端に長くなるというわけである。このことはわたしにとって悲劇に遭遇するということを意味する。それは授業時間でもないのにもかかわらず暇をもてあました小中学生どもがわたしの眼前にあらわれる確率が極めて高くなるということである。
 そのときわたしは貫禄ある大人物であることをアピールするかのようにキッチンと職員室との間を小走りで何度も往復していたのであるが、何度も往復しているせいかほんの五メートルほどの短い距離にもかかわらず小学五年生の榊原くんにつかまってしまったのである。
「ねえねえ」
「何だね、相変わらず間抜けな顔をして。以前も指摘したが眉と眉の間の産毛は剃ったほうが良いぞ。このままでは本官さんになってしまう。もっともあれは目玉がくっついているのだが……」
「うるさいな。誰なんだよ、本官さんて。それより今忙しい?」
「ああ、忙しいさ。ものすごく忙しいさ。この姿を見ればわかるだろ。この冷静沈着でいて貫禄たっぷりのわたしがこの美しい顔に汗しながら歩き回っているのだから忙しいに決まっている」
「何いってんだよ。どうせキッチンに煙草をすいに行くのに忙しいくせに。仕事をさぼってるくせに忙しそうにするのは良くないよ」
「な、何を言っておるのだ。人聞きの悪い。ちょっと面倒な作業なものだから普段よりも少し多く煙草を喫んでいるだけだ。一定の作業を終える毎に少し楽しいことをする、こういう風に仕事をすると能率があがるのだ。これを難しい言葉でいうと報酬系を確立すると言ってだな……」
「何いってんだかわかんないよ。小難しいこと言って結局今そんなに忙しくないんだろ」
「誰が何と言おうとそして仮にわたしが仕事をさぼって煙草ばかり喫んでいようと今は忙しい。それが大人というものだ。しかしまあ君たちの話を聞くというのも業務の一環だ。仕方ない話したまえ」
「あのね、さっき家で遊んでいるときに思いついたんだけど、この廊下でちょっとやっていい?」
「何をやるのだ。壁に貼ってある掲示物を破いたりしてわたしに迷惑をかけるのなら後でヘッドロックしながらアイアンクローを三十秒決めるぞ」
「大丈夫だよ。別に迷惑かけないからさ。ここの廊下みたいにつるつるしてないとできないんだ」
「そ、そうか。じゃあやってみたまえ」
 すると榊原くんは廊下の端まで走ってゆきそしていつになく真剣な表情をしてこちらの方を見た。
「じゃあやるよ」
「ああ」
 榊原くんはゆっくり助走をつけそして少しずつ速度を上げながらこちらに向かってきた。そしておもむろに飛び上がりそのまま膝を曲げ廊下の床に正座で着地した。しかし勢いがついているせいかその正座の姿勢でするするとこちらへすべってくる。そしてわたしの前に近づいてくるとそのまま両手を床に添えそして頭を床につけた。やがてその姿勢のままわたしの足元で止まり榊原くんは言った。
「ごめんなさい」
「……」
「ごめんなさい!」
「……何だ……それは」
「ジャンピング土下座」
「そ、そうか、ジャンピング土下座か……」
「そう、ジャンピング土下座」
「な、なるほどなあ。これじゃあ家の廊下じゃできないな」
「これだったらどんな悪いことしても許してくれそうでしょ」
「そうだな。たしかにそこまでされたら許してしまうだろうな」
「だから、先生も叱られたりしたらやったらいいよ、ジャンピング土下座」
「そうだな」
「じゃあやってみなよ、ジャンピング土下座」
「え? わたしがか」
「早くやりなよ。今誰も見てないからさ」
「し、しかし、いくらなんでも三十路を前にしてジャンピング土下座はちょっと……」
「おもしろいからさ」
「し、しかしなあ、こんなこといい年してこんなみっともないまねできないぞ……で、このくらいから助走をはじめるのか?」
「そうだよ、その辺から、どうせやってもやらなくてもみっともないんだから、早くやってみなよ」
 わたしは何ともいえない羞恥心を感じながらも膝を通して伝わってくるするするした廊下の感触を味わっていたのだが、ちょうどそのとき小学六年生の木元くんがわたしの土下座ポイントにやってきて、正座しながら廊下をすべってくるわたしと目があった。
「やあ、木元くん。まだ授業じゃないのにどうしたんだ」
「正座しながら何言ってんの?」
「ああ、うう、ええとこれはだな、ジャンピング正座と言ってだな、まあそんなことは気にするな。地球がいずれ太陽にのみこまれることに比べたら大したことない。で、どうしたんだ」
「え! 地球って太陽に飲み込まれるのおお!」
「それは事実だが、どうしたんだ。こんな時間にやってきて」
「それ熱いの? どれくらい熱いの?」
「たこ焼きを十個ほおばったときの一億万倍くらいだ。で、どうしたのだ。こんな時間に」
「すげえ、めっちゃ熱い」
「そんなことはどうでもいいのだ。それより質問に答えたまえ」
「そうそう、ちょっと薬をもらおうと思って……」
「そういえば服が破れてるし擦り傷だらけじゃないか。大丈夫か」
「ええとね、ちょっと闘ってきたから……」
「誰かと喧嘩でもしたか」
「ええとね、学校でにわとりを飼ってるんだけど今日餌の当番だったんだ。それで餌をやっててたらね、いきなりにわとりのクロマティが飛び掛かってきたんだ。だから」
「……そ、そうか……それは大変だったな。で、勝敗の方はどうだったんだ」
「勝ったよ。最後はぼくがクロマティにヘッドロックをきめて」
「そうか、勝ってよかったな」
「うん」
 こうしてわたしは馬鹿な餓鬼どもに囲まれつつ、そして若干の膝の痛みに己の情けなさを感じながら、二十代最後の夏を過ごすことになるのかと思うと何だかやるせなくなってくるのである。


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