其の170 後舌面を高めよ


 日本語ほど難しい言語はあるのだろうか。
「口を広く開き、舌を低く下げ、その先端を下歯の歯ぐきに触れる程度の位置におき、声帯を振動させて発する(広辞苑)」
 「あ」である。口を広く開き、舌を低く下げ、その先端を下歯の歯ぐきに触れる程度の位置におき、声帯を振動させて発するのである。かなり大変だ。「あ」だからといって侮ってはいけなかったのである。舌の先端にまで気を使わなければならないのである。口のフォームは出来た。舌の動きもばっちりだ。しかしそれだけではいけない。
「声帯を振動させて発する」
 ここがポイントだ。ここまでの一連の作業を完遂させて初めて「あ」と言う資格があるのである。日本語は大丈夫だ、だったら次に英語でも話せるようになるか。こんな軽い気持の奴に外国語を勉強する資格などない。「あ」一つをとってもこれだけ奥が深いのである。はたちそこそこで日本語をマスターできたと言えないのではないか。少なくとも八十年は日本語について学んでから次の言語に進んでもらいたい。
 かなり難しい「あ」であるが、これでもまだ基本である。
「口を広く開き、舌を低く下げ、その先端を下歯の歯ぐきに触れる程度の位置におき、目を大きく見開き、がっかりした感じを織り込みながら、短くそして鋭く声帯を振動させて発する」
 カレーだと思って口にしたらハヤシライスだったときの「あ」である。日常カレーだと思って口にしたらハヤシライスだったことはよくあることである。そんなときに発する「あ」でさえもこれだけの作業が必要になるのである。もちろんここにある作業だけではない。息も吸わなければならないし、心臓も動いていなければならないし、スプーンだって高らかに掲げていなければならないし、口の周りも汚していなければならない。こういったことを省いて記述してもかなり複雑な作業をしなければならないのである。「あ」だからといっておろそかにしてはいけない。
「前舌面を下歯の歯ぐきにわずかに触れる程度に後退させ、後舌面を高め、唇を尖らせ、口腔の狭い部分から声を出すことによって発する」
「う」である。こうなるとかなり日本語に自信がなくなってくる。これまで「前舌面を下歯の歯ぐきにわずかに触れる程度に後退させ、後舌面を高め」ることを意識しながら「う」と発音したことなどあったかどうか自信がない。まず「前舌面」というのがよくわからない。「まえしためん」と言うのかそれとも「ぜんぜつめん」というのか何だったら「ぜんしたづら」か。読み方すらわからない。そして問題は「後舌面」だ。口の中で高めるのである。どういった状態なのかよくわからない。「高める」というところがこの文を難解にしている。
「光あれ。そして後舌面を高めよ」
 こんなことを言われたらどうしたらいいのかわからないじゃないか。単純に口の中で上顎の方に近づけるだけでよいのか、それとも何らかの手段で「後舌面」の価値か何かを高めるのか。
「あ」以上に複雑な「う」である。しかしここまで何とかできてもあくまで基本でしかないのである。
「前舌面を下歯の歯ぐきにわずかに触れる程度に後退させ、後舌面を高め、唇を尖らせ、腕を挙げるなど自分をできるだけ大きく見せるようにし、その対象を威嚇しながら、出来るだけ息を続けて口腔の狭い部分から声を出すことによって発する」
 いつも前を通る度吠えてくる隣の大きな犬に今日こそは人間の恐ろしさを見せつけてやると決死の覚悟で対決するときの「う」である。日常犬に吠えられて困ってしまうことはよくあることである。そんなときに発する「う」ですらここまでのことをしなければならないのである。もちろんここに記述されていないことも多く存在する。眉をしかめるなど怒っている顔を作らなければならないし、手には若干の汗もかいていなければならないし、足もがくがく震えていなければならない。こういったことを省いてでもこれほど複雑な作業が必要になってくるのである。もう「う」だからといっておろそかにしてはならない。何だったら「う」という音の入った言葉は話したくないくらいである。
「『あ』と『う』の中間の母音。唇の両端を少し中央に寄せ、舌を少し後方にひき、後舌面を軟口蓋に向かって高め、声帯の振動によって発する(広辞苑)」
「お」である。こうなるともうどうすればいいのかさっぱりだ。どうにでもしてくれという気さえおこってくる。まず「あ」がきちんとマスターできていなければならないし、その上「う」もしっかりしていなければいけない。そして問題はこれである。
「後舌面を軟口蓋に向かって高め」
 軟口蓋というのがわからない。ちょうど広辞苑があるので引いてみることにする。
「口腔の上壁、すなわち口蓋の一部。前半部の硬口蓋の後になる柔軟部で、後端の中央に口蓋垂があり、嚥下(えんか)の際、後鼻孔を塞いで食物が鼻腔に入るのを防ぐ」
 かなり難解な説明だが、口の上の方で舌をつけるとくすぐったくなるあれか。そんなマニアックな部位に向かって後舌面を高めるのである。
「一、我の他何ものも神とするなかれ。二、偶像を作って拝み仕えるなかれ。三、汝の神ヤーウェの名をみだりに唱えるなかれ。四、安息日を覚えてこれを聖くせよ。五、汝の父母を敬え。六、汝殺すなかれ。七、汝姦淫するなかれ。八、汝盗むなかれ。九、汝隣人に対して偽りの証をするなかれ。十、後舌面を軟口蓋に向かって高めよ」
 こんなことをモーゼに言われたらもうどうしたらいいのかわからないじゃないか。
「あ」「う」「お」ともっとも基本的な母音ですらこうである。
「舌尖を上前歯のもとに密着して破裂させる」
 「だ」である。もう技術だとか作業だとかそんなことは言っていられない。舌尖すなわち舌の先を破裂させてしまわなければならないのである。只事ではない。話すとかそういった問題ではない。「だ」というたびに舌尖を破裂させているのだからその度に口から煙がもくもくだ。
「舌尖を上前歯のもとに密着しながら、腕を天高く掲げ、顎を思い切り突き出すようにして、そしてものすごく破裂させる」
 アントニオ猪木の「だ」である。
 これほど恐ろしい言語を話しているのだから日本人が外国人に理解されないのも仕方がないのかもしれない。


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