其の176 涙のボーリング大会


 三月から四月にかけて、これまでのわたしの人生でもっとも忙しい時期であったように思える。朝職場に向かい仕事にとりかかる。昼食をとり午後の仕事を始める。仕事を終え夕食をとり、時計をみるともう夜中の二時である。そして次の日の仕事は八時からである。寝る間もないとはまさにこのことだ。だからといって仕事の量が減る気配は少しもない。ますます増加の兆しを見せている。会社はわたしに死ねと言っているのか。それともこれまで以上仕事中にうたた寝しろとでもいうのか。
 そんな忙しい日々を過ごしているというのに、会社より更に一つの指令がわたしに下された。
「新入社員歓迎社内ボーリング大会」
 この四月に入社してきた新入社員との交流を深めるために催されるとのことである。たしかにわたしは昨年の五月に入社してきた。しかし三十路を過ぎて新入社員と同様強制的に参加させられるとは思わなかった。
「課長、どうしても参加しなければならないんですか」
「そういう決まりだから仕方ないんだ」
「しかし、わたしにはやるべき仕事が山のようにありますから、参加している余裕なんてありませんよ」
「これも仕事の一つだ」
「棚の整理もしなければなりませんし、紙も折らなければなりませんし、あと机の中の整理もしなければなりませんし、あと散髪にも行かなければなりません。ハードディスクの中の整理もしなければなりませんし、紙も折らなければなりませんし、ギターの弦もそろそろかえどきです。呑気にボーリングなんてやってる余裕なんてないんです」
「忙しいのはわかったよ。散髪くらいはわたしが代わりにいっといてやるから参加してくれ」
 代わりに散髪にいってもらってもどうしようもないじゃないか。サラリーマンは辛い。上司の命令は絶対である。
 会場に到着するとだらだら煙草をすいながらだらだらだにだに言っている新入社員やボーリング好きの出世しそうもない中年社員が大勢集まっていた。わたしもその中の一人だと思うと涙が溢れそうになる。大阪から田舎に来たことだけでシティーボーイであるわたしには我慢ならないことが多いのである。吉野家がない。カレー屋インディすらない。大型書店すらない。コンピュータの部品を買うのに車で二時間だ。そんなわたしに神様はさらに試練を与えようというのか。
 ハンサムな顔を歪ませながらもわたしは気丈にも明るくふるまおうとしていた。こういう場で一人やる気なさそうに暗くしていてはいけない。心より楽しい振りをするんだ。ボーリングが好きで好きでたまらないような顔をするんだ。何だったらマイボールを抱きながら毎日寝てるような顔をするんだ。そして百万ドルの笑顔を見せるんだ。百万ドルは無理でも百万元くらいの笑顔を見せるんだ。そんなことを考えながら、景品のDVDプレイヤーに心を奪われていた。
 重さや指が入る穴の大きさを細かくチェックし、もっともスコアの伸びそうなボールを選びゲームがスタートするのを今か今かと待つ。肩をぐるぐる回しウォーミングアップも充分である。別にDVDプレイヤーが欲しいわけではない。皆が楽しそうにしている雰囲気を壊してはいけないというわたしの気遣いである。
 思えばボーリングをやるのは大学生のとき以来である。十年近くボーリングなどやっていない。しかしかつては友人と飯代をかけてのボーリングで最後の最後に大逆転をし、見事カレーを得たこともあった。優勝できるとは思わないが、せめて三位には入れるだろう。幸いDVDプレイヤーは三位の景品だ。何としても三位にならなければならない。勢い余って優勝しそうになったらわざと失敗をしてうまく三位にならなければならない。嘘をつくのは慣れている。わたしの人生そのものが嘘くさいといっても過言ではないくらいだ。
 ピンを見つめながら精神を集中させていると、わたしと同じチームとなる新入社員がやってきた。
「ちわーっす、同じチームっすね、はははは」
 何だこのテンションの高さは。新入社員というのに既に会社に慣れきった感じである。わたしなんかは一年近くなるのにちっとも慣れない。顔がわからないから席を頼りに打ち合わせに言ったら全然別の部署の人で険しい顔で人違いであることを指摘されたのもつい最近のことだ。それなのに何だ、この馴れ馴れしさは。
「そういえば同じレーンでやる人たち来ないですね」
「えっと、他の人たち今日来ないってさ」
「え、そうなんですか」
「だから今日は二人で回すみたい。疲れるよな」
 敬語で話しかけているのはわたしである。わたしが新入社員ごときに敬語で話しかけるのは、あくまで年長者としての余裕であって、新入社員の腕がわたしの太股くらいあるからではない。そして失礼な話し方をされても嫌な顔せずにこやかに対応するのはわたしの心が広いからであって、新入社員が強そうだからではない。
 周りを見てみると他のレーンではマイボールを持ち込んでいる者がいた。そして何のためにしているのかよくわからない手首につけるサポーターのようなものをしている者もいる。隣の新入社員もサポーターをつけ始める。はめられたのか。ここは会社の新入社員歓迎ボーリング大会という牧歌的な空間だったのではなかったのか。本物の匂いが漂ってくるような者が周りにうようよいるではないか。
「あの、そのサポーターみたいなのみんなつけてるけど、みんなよくボーリングするんですか」
「毎週やってるだ。それより足引っ張らないでよね。みたところ素人みたいだから」
 ボーリングなんかの玄人になんかなってたまるか。それに足を引っ張るとかって何だ。わたしはハンサムな顔を怒りで紅潮させながら、この無礼な新入社員を殴りつけかねない勢いで言った。
「足引っ張るってどうしてですか」
「全然話聞いてないんだに。これチームごとのアベレージでも景品でるだよ。だから頼むに」
 そうだったのか。全然聞いてなかった。そういえばさっき司会の人がそんなようなこと言ってたような気がするが、DVDプレイヤーに夢中で話を聞いてなかったのだ。
 しかしやる気充分といった感じの者に囲まれていると、DVDプレイヤーを頼りに大きくしてきたやる気が少しづつ小さくなるような気がする。さっきまで手が届きそうだったDVDプレイヤーが遠ざかってゆくような気がする。そして隣には何故か女子社員は一人もいない。遠くからは黄色い声も聞こえるというのにわたしの隣には無礼で顔が怖い新入社員だけだ。そんな最悪の状況のままゲームが開始されたのである。
 重いボールを転がし十本のピンを倒す。こんな原始的なものはわたしの美学に反している。だいたい重いボールをごろごろ転がして何が楽しいというのだろうか。ピンが倒れれば幸せが訪れるというのか。わたしはどちらかというと頭脳派なのである。わたしは絶対にこんなスポーツを認めないし、帰り際に言った新入社員の「大阪にもボーリングってあるよね」という言葉も絶対許さないし、DVDプレイヤーに未練なんか絶対ない。


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