其の9 公家でごじゃる


 武士はござるという。一人称を拙者という。そして公家はごじゃるという。一人称は麿という。よくカストリドラマの中で武士が出てくると「拙者はたまらんのでござるよ、姫」といい公家が出てくると「麿はのおたまらんのよのお、うちにて出しとうごじゃる」などという。勿論戯画としての武士であり公家であるのだろう。そこでだ。武士が滅びたのは廃刀令によってだったか四民平等令が出た頃か、はたまた西南の役の頃か、とにかく実体としての武士は明治にはなくなっている。かれこれ百数十年にもなろうか。しかし公家の場合はどうだろうか。滅びたといえるのだろうか。公家というものは家柄によるものであるが、遥か平安の都に思いをはせれば、藤原家を筆頭に、皇族と血縁を持ち、その荘園からの潤沢な資産によって、支那の古典は勿論のこと、万葉の頃の歌にまで及ぶ深い教養を身につけた特権階級だった。つまり公家とは何かといえば、歌をつくり、恋をし、鞠を蹴る、そんな集団であるといえないだろうか。すると公家というものの必要条件は、家柄以上に教養を身につけた知的集団でなければならぬといえるのではないか。それならばである。如何に公家が制度の上でなくなろうとも、その家柄が確かであり、歌をつくり、鞠を蹴る人は公家であると言っても差し支えないのではないのだろうか。これらの条件が公家であることの證明であるとするならば、この殺伐とした現代日本においても真の公家は存在しているのではなかろうか。
 これらの条件に違わぬ人を考えてみる。するとサッカーの三浦選手が浮かんだが、たしかに歌をうたい、鞠を蹴る。しかし公家たるもの三浦ではちょっと貫禄が足らないような気がする。名前である。名前が公家としては今ひとつなのだ。それに三浦というと公家というよりも武士である。やはり伊集院であるなり、武者小路であるなり漢字三文字ないしは四文字でなければ公家はつとまらないように思える。
 では少し条件を変えよう。名前は何でも良いことにする。マイクでもマキでもポールでもマキでも構わぬことにする。ついでに鞠を蹴るのも条件からはずすことにする。やはり現代で鞠を蹴る人種というのはサッカー選手しかいないように思えるからである。昔とて皆やみくもに鞠を蹴っていたわけではななかったはずである。これでかなり楽になるはずだ。歌をつくり恋をするする者、これを公家であるとしよう。まず歌い手なる職業に就いておる者がいる。そやつらは確かに歌をうたい恋をする。しかしどうも歌手が公家であるとは思えぬ。何かが足りないような気がする。そう、没落である。公家たるものは没落せねばならぬ。そして没落を知りながらも一時の享楽に身を委ね歌をうたひ、恋をしなければならぬ。歌い手共はどうか。彼らは没落などしてはおらぬし、没落したものは歌い手とは認知されないのである。というわけで歌い手は公家ではない。
 難しくなってきた。やはり現代には公家はいないのであろうか。条件をもう少し緩めることにする。歌なぞもうよい。恋なんぞ糞喰らえ。ただただ没落であり、教養を身につけようとしているもの。これだけでである。これだけで公家である。これならどうだ。それならわたしの周りにもおるではござらんか。使いみちのない知識を溜め込み、先行き真っ暗であり、社会に適合することもなく、さりとて文句を言わぬでもない。そんな種族がいるではないか。そう駄目人間である。駄目人間こそが現代の公家なのではないだろうか。
 それでふにおちるというものである。最近発言の語尾に「ござる」だとか「おじゃる」だとかつけるものに限って駄目人間なのでおじゃるからのう。駄目人間が現代の公家であるのならばやはり公家は滅びるに限る。秋刀魚は目黒に限る。


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