其の17 小僧


 情報というものは扱い方次第で凶器にもなりうる。ペンは剣より強し、そして元マドンナの旦那という諺もあるくらい言論が恐ろしい武器になることは周知のことである。我々は普段スラムを裸で財布をぶら下げながら歩いているわけでもなし、肉体的な恐怖は今の日本そうあるものではない。そうするとやっぱり精神的なダメージの方が身近であり、そして頻繁に起こりうることとして用心しておかなければならないのだ。
 鮨は美味い。カレーも美味いが鮨の魅力には勝てない。まず値段が違う。拝金主義はわたしの最も嫌うものであるが、値段が高ければそれ相応に美味いのは確かである。大体鮨ひとつでカレー一杯喰えるのだから不条理である感もあるが、漁師さんの苦労や板前さんの修行時代の先輩からの苛めなどを考えるとそれも納得できる。それに美味いものには勝てない。
 わたしは鮨屋にいる。板前さんの手捌きに見とれながら「次は蛸ね」などと言っているのだ。後ろの水槽には名前のわからない魚が泳いでいる。そして目の前の小さな水槽には栄螺がいる。うーん、最高っすねえ。
「……それでねえ、今日は出たんだよ」
「へえ、やりますね」
「当たり前だよ。そうじゃなきゃ鮨なんか喰えないよ」
「でも昼に来たときは負けてたじゃないすか」
「そうそう、あれからねえ、連チャンが来てねえ、今日はこれだけ勝ったよ」
 五十は半ばを過ぎた白髪交じりの人と板前の会話である。どうやらパチンコに勝った金で鮨屋に来ているらしい。初老の男は板前に指を四本見せた。四万円か、羨ましい限りだ。
 わたしは黙々と喰っていた。滅多に喰えるもんではないから必死である。
「じゃあ、次は新香巻き」
「あいよ」
 四万円も勝った割に質素である。初老の男の喰ったものは、烏賊、蛸、海老、納豆巻、サラダ巻きと安いものばかりだ。他人の喰ったものなどどうでも良いのだが、やっぱり隣に座っている人の喰うものは気になるものだ。そして隣の人の会話は更に気になるものだ。
「……でさあ、栄螺って泳ぐんだよね」
「へ?」
「泳ぐんだよ、栄螺って」
 栄螺ってリュウテンサザエ科の巻貝数種の総称。また、その一種。貝殻は厚く拳(こぶし)状、多くは棘状(とげじよう)の突起があるが、内海産でそれを欠くものもある。殻高約八センチメートル。外面は暗緑褐色、内面は平滑で真珠光沢がある。殻口は円く大きく、蓋(ふた)は石灰質で硬く渦巻状。肉は壺焼などにし、貝殻は貝ボタンを作る。日本近海に多く、海藻を食うんだよな、と広辞苑的知識を反芻していたのであるが、泳ぐというのは聞いたことがない。まさか「んあんん」とかいう最近はじゃんけんする二十四歳子持ちの女性を言っているわけではないだろう。水槽の栄螺を指しながら言っているのだから間違いない。
「そんなわけないでしょ、それ帆立と間違ってるんじゃないですか」
「いいや、栄螺だよ。あれは泳ぐんだよ。こんな風に」
 両手で握手をするような格好でパコパコいわせている。目の前に実物がいるだけに余計に栄螺が泳ぐ姿が想像できない。パコパコを続けながら男は言う。
「ほんとだよ。この間テレビでやってたんだ」
「……そうすか……」
 板前はまた黙々と鮨を握りはじめた。しかし納得できないようだ。そうだろう。板前は魚のプロである。毎日鱗を触るのを生業にしているのだ。それに比べて初老の男は昼間からパチンコをしているどうしようもない男だ。わたしだって男の言う言葉が信じられない。テレビを出したところで板前の意見の方に分があるように思える。しかし、世間の人はどうしてテレビとか新聞とかいうものに弱いのであろうか。たとえ新聞やテレビで言っていたからといって全てが事実であるはずもないだろう。とくにこの頃は報道番組でさえ自作自演する時代だ。堪えられなくなったのか板前がぽつりと言った。
「……どのテレビすか」
 板前はとうとう本腰を入れて真相究明に乗り出すつもりか。
「ええとねえ、あれはなんだっけ。中年のタレントがやってて、ほら四チャンネルか六チャンネルの、ほらあれだよ。とにかくやってたんだよ」
 あら、うろ覚えか。もうこの男のいうことなど誰も信じやしない。それでも男は必死に手をパコパコしながら「みたんだよ」と言い張っていた。その泳ぐ貝というのが栄螺か他の貝かどちらであるか誰も確認出来ないんだから仕方ない。板前はうろ覚えの男にむきになることもあるまいと思ったのか、「ああ、そうなんですか」と再び鮨を握るのに集中しはじめた。しかしどうでもよいことだ。栄螺が泳ごうか泳ぐまいかなど、誰も関心をもってなどいない。少なくともこの鮨屋では男を除けば誰独りとして興味などない。男はまだ手をパコパコしながら、「こんな風にね」と言っている。わたしは横でその会話を聞きながらも板前の手があくときを的確に狙って「ハマチ」や「鮪」や「卵」やらを注文していた。美味い。もう隣の男の話はどうでもいい。ところがである。男はわたしの方を見て「ねえ、知ってるだろ、泳ぐの」とパコパコさせながら質問してきたのだ。口の中に広がる穴子の旨味を感じながら、「知らない」と一言ばっさりと言った。男のパコパコは止まった。「お前も見ただろ」「知らんって」「これだよ」再びパコパコが始まる。もうお解りだろうが、隣の男は父上であったのだ。
 しかし栄螺って泳ぐのですかねえ。パコパコって。父上は嘘は言わない男である。栄螺が泳ぐのは本当のことかもしれない。しかしどうだっていいじゃないか。そんなこと。こんな美味い鮨を喰ってるときにねえ。
 帰りしな、かなり酔っ払った父上はまだパコパコしながら「泳ぐんだよ」と呟いていたのが哀れでもあり可愛くもあったのである。いや可愛いというのは嘘だが。


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