其の45 馬鹿にされる


 いやはやいやはやどうなっとんじゃ、儂の体はそないに軽いのか。最近太ってきたとはいえ身長百八十四センチ体重七十キログラムの立派な大人でござるぞ。立派というのは身体だけで中身はそうでもないのであるが、それでも儂を馬鹿にしておるのか。斬る、斬って刀の錆にしてくれる。もう一度訊く。儂の身体はそないに軽いのか、風よ。お主のせいでもう少しで車に轢かれて轢死体となるところであったのであるぞ。太陽にけちょんけちょんにされるような北風などに負ける儂ではないのだ。だいたいなんだ、冬だからか。冬だから強いのか。そんな季節限定攻撃など一日とて休みの取れぬ儂にとっては効くはずも道理もないのだ。それに生意気にも儂が煙草に火をつけようとしたところを狙うなど百年と十日早いわ。煙草を咥えながら蹌踉めく儂を見て楽しいのか、風よ。風さんよ。そんな卑怯な手に負ける儂ではないのぢゃ。死んでも煙草を離しませんでした。死にそうになっても煙草を離しませんでした。悔しいから五分も蹌踉めきながら煙草に火をつけていたではないか。五分もだぞ、五分。五分といったらなんだ、地球が3.75度も動くのか。時計の長い針さんは30度、短い針さんは2.5度も動くのである。無駄にしてしまったぢゃないか。そんな戯れごとにかまうほど暇はないのだ。折々もせねばならぬし書き書きもせねばならぬし貼り貼りもせねばならぬし、カレーも喰わねば生きてゆけぬのだ。仕事もせずぶらぶらと吹きまくっているお前のようなのらくろ野郎に俺の気持ちが解ってたまるか。吹くな、吹くな。また轢かれそうになるぢゃないか。だいたいなっていないぞ、吹くばっかりでたまには吸ってみろ。吸え。吸ええ。なんだ、その目は。儂に歯向かうというのか。儂は折々のプロだぞ。怒らすと怖いんだぞ。紙を三千枚も折れるのだぞ。しかし儂ばっかりに強く吹きやがって。前を歩いているおばちゃんには少しも吹いていないぢゃないか。
 風に怒っても仕方がないのであるが、最近どうにもついていない。風にさえ馬鹿にされるのである。こういう気分のときは何を見ても、何を言われても自分が馬鹿にされているような気がしてならない。
 歩いているとふとマリンスポーツ用品店の前を通ったりする。冬であるのだからマリンスポーツでもないだろうと思うのであるが、彼らには季節感というものがないのだろうか、冬でも営業しているのである。中を覗いてみると、一枚のポスターが貼られている。
「ダイバーは地球を守る」
 そうか。守っているのか。ということは海底にでも行って地震が起こらないようにおさえているとでもいうのだろうか。それとも海にもぐる度にごみでも拾っているのだろうか。海に潜っているときにごみを拾う余裕なんてあるとは思えないし、冬でも海に潜っているような季節感のない人間に地球の環境を考えるような繊細な神経は持ち合わせているようにも思えない。それに真冬に趣味で海に潜るなんて海女さんを馬鹿にしているような気もするがどうであろうが。まあ気の済むまで地球でも何でも守ってもらいたいものだ。
 いかについていないとはいえ腹は減る。退勤の時間が時間だけに普通の飯屋は開いていない。概ねラーメン屋とか牛丼屋とかファミリーレストランで食事をすることになる。誰かと一緒に飯を喰うとき以外はまず読書をしながらの食事になる。箸が止まった際など何処を見ていればよいか解らないし、一人一所懸命飯を喰っているのも様にならないからであるが、これが結構楽しみで敢えて家で食事をしないことが多いのである。それなのに、あのラーメン屋のおっさんはどうだ。わたしが楽しく食事をしながら読書をしていると、
「そのラーメン、直に食べると一番美味しいようにつくってあるから本読むのやめてくれないか」
 へ? 深夜営業の寂れたラーメンチェーン店の店員がいう言葉がこれなのだが、たしかに一所懸命つくった料理を読書の肴にされるのは腹がたつのかもしれない。しかしこっちの勝手ではないのか。それにわたしは猫舌であるからある程度ゆっくりと喰わなければならないという理由もあるのである。素直に読書を止めたが、客がわたし独りであった為、客独りに四人の店員のいる店で黙々と飯を喰うことになってしまった。しかし非常に気不味い雰囲気の中での食事は読書しながらの食事以上に不味いのではなかろうか。それに競馬新聞読みながら煙草をバカバカ喫いながらラーメンをつくるおっさんに言われたくもない。仮にも料理人であるのだから客の前で煙草を喫うのは止めるのが筋だと思うが如何なものだろうか。 
 そしてファミリーレストランの店員もわたしを馬鹿にするのである。清算のとき一万円札を出したところ、その店員はわたしの方をじっと見てから言った。
「じゃあ、小さい方のお釣りから」
 どの辺りを見て小さい方からお釣りを返す気になったのだろうか。透視能力でも持っているのか。わたしの経験によるとお釣りの返却は殆ど大きい方からだと思うのだが、何故こういう気分のときに限って小さい方からお釣りを払われるのか、それには因果関係があるのか一度ゆっくりと調べてみたいと思うのだが、それより「じゃあ」という言葉は何に掛かっているのか非常に気になる。わたしの人となりとか、心の広さとか、容姿の総体に対してなのかもしれないが、どうしてこの店員に解ったのか教えてもらいたいところである。


[前の雑文] [次の雑文]

[雑文一覧]

[TOP]