其の50 駄目な人だから


 指が痛い。先程下駄箱を捨てに行こうと思い立って運びだしたはよいが、戸ががらがらと落ちて来て指を挟んでしまった。痛い。しかし階段での出来事なので、蹲まることも出来ずただただ痛い、痛いと叫ぶより他ないのが悔しく、涙さえ出そうになっているところに第二弾がやってきた。戸は二枚あったのである。左手の薬指が紫に腫れている。こういうときキーボードによる入力なので、如何に苦労して痛みを堪えてタイプしようとも伝わらないのが口惜しい。
 さてついこの間、レンタルビデオ屋でのことだ。相変わらず昔見た映画を借りに行ったのである。新しい映画を見ようと思わないところがもはや精神的に老境に差し掛かろうとしている証左かもしれない。
 深夜のレンタルビデオ屋は百鬼夜行の様相を呈している。男共はアダルトビデオのケースを十億は下らない絵画でさえそれほどじっくりとは見ないであろうくらい熱心に見入っている。所謂ヤンキーと呼ばれる若者が多いのだが、店員もまたヤンキーで最早象徴と化した茶髪である。わたしのように映画を物色している人の方が少ないくらいアダルトビデオのコーナーに屯っているのだ。以前も大声をあげるヤンキー二人組を紹介したが、またしても二人組である。彼らの会話はこうであった。
「お前、初めてマスターベーション(露骨な表現ですので以下はアレと略す)したのいつ?」
「うーん、いつだったかなあ」
「俺はなあ、たしか小学五年の冬だったかな?」
「よく覚えているなあ。俺が初めてアレかいたのはたしか高校一年の頃かな?」
「へえ、遅いなあ」
「うん、俺は遅咲きな人だから」
 この時点で大爆笑を堪えるのに必死だったわけであるが、何故わたしが彼らの傍らにいたのかはたまたま落ちた車のキーが十二メートル程転がって偶然彼らの横で止まったからであって他意はないのである。しかし遅咲きっていうのも可笑しい。そういうものに関しても早咲き、遅咲きという表現を使うのであろうか、と考えているとやっと解った。彼は奥手と同義で遅咲きという言葉を使用していたのである。彼らの間ではそういうことに関しても遅咲きという表現を用いているという可能性もなきにしもあらずであるが、多分奥手ということを言いたかったのであろう。
 しかし言葉の選択というのも対象によってひどく滑稽な印象を与えるものである。彼が間違っていたのはマスについて遅咲きという表現を使ったことと自分に対する形容として使ったことであろうか。そういえば、最近よく、というわけではないが、以前から「わたしは○○な人だから」という表現を聞く。たとえば「わたしは低血圧な人だから」だとか、「わたしはブルース進行しか弾けない人だから」という具合に使用されている。幸いにしてわたしの知り合いにはこのような表現を頻繁に用いる人は少ないのであるが、テレビやラジオといったメディアの中で聞くことがあって非常に苛立つのである。苛立つ原因は解っている。自分のしでかした行為に対する言い訳を生来よりの性質、最早どうしようもない生態として語るという点である。
「わたし低血圧な人だから」
(朝に何言っても無駄だし、遅刻が多いのも仕方ないのよ)
「わたしブルース進行しか弾けない人だから」
(ギター下手なの。だけど練習するのはキ・ラ・イ)
「わたし天然ボケな人だから」
(しっかりとした考えがなく適当に喋ってしまうの。だから変なこと言ってもわたしが馬鹿だからじゃないのよ)
 という具合に必ず「……な人だから」の後に言い訳が隠されているのである。その上「人」をつけるのもどうかと思う。いちいち確認しなければならない事項なのだろうか。たしかに人間の姿は世を忍ぶ仮の姿であって本当は鯖かもしれない。だったら海にでも帰って気ままに言い訳などしない生活に戻って貰いたいし、おそらく真の姿が鯖であるということも非常に低い確率のはずである。この「人」という言葉も相手に生まれつきの性質はどうしようもないと思わせるところがある。言い訳をするのにもせめて「……な人」というのを省いて素直に「わたしは○○です」と言ってもらいたいものである。それかわたしの様に「我が輩は駄目人間である。まだ名前を呼んでもらったことはない。おい、とかお前とか呼ばれる」と開き直るくらいの度胸が欲しいところである。
 レンタルビデオ屋での会話に戻るが、やはりアレには遅咲きとか早咲きとかいう表現は似合わないと思う。もしこのような表現がまかり通るならば、こういうのも使えるはずである。
「俺、アレに関して呉越同舟だから」
「俺、アレに関して燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやだから」
「俺、アレに関して国士無双だから」
「俺、アレに関して朝三暮四だから」
「俺、アレに関して大器晩成だから」
 特に最後のは意味深である。しかし実際彼らはこのようなよく解らない使い方をすることはなかったのであるが、最後にやや知的に見える方の男が言った。
「そうだなあ、俺は早かったからなあ。よく言うだろ。先端も双葉より香ばしいって。ははは」
 そういって彼らはわたしの前から去っていった。
 すまん、嘘だ。


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