其の72 脳味噌繋ぎっぱなしか、こいつら


 そのときわたしは車の中で慌てていた。いつものように仕事場に向かっていたのであるが、右側の薬局の前に置いてあったサトちゃんを見ているとき重大なミスを犯したことに気付いたのである。電話を繋ぎっぱなしで家を出てきたという事実にである。不覚にもその事実に気付いたとき思わず「あうあう」と口走ってしまったのであるが、時計を見ると遅刻まではしないものの戻って電話を切る時間はない。もはやこれまで、戦に破れた武将の如く目を見開いて前方を見つめたのであるが、涙のせいか眼鏡が曇ってよく見えないのである。
 わたしがネットに繋いでから平日の昼間にして既に一時間が過ぎようとしている。すばやく市内電話料金を計算する。たしか三分十円だったはずだよな、まだ。いや、そうあってくれ。一時間だから、二百円か。缶コーヒーを二杯我慢すれば良い、その程度の金額であるが精神的なダメージはその程度では収まりきらないものとなっている。タクシーのメーターも同様の効果をわたしに及ぼすが、目的地がはっきりしている分、そしてメーターが増えるのに我慢出来なくなったとき運転手に停めてくれと言える分、気は楽だ。しかしこの場合は更に深刻である。なんとなれば本日は家人全ての帰宅が遅くなるとのこと。少なくとも夜の十時までは家には誰もいないことになる。もし家人が電話が繋がりっぱなしであることに気付かなければわたしの帰宅までは誰も電話を切らないであろう。これから約十二時間は帰宅出来ないという事実がわたしに重くのしかかる。頼むから誰か電話を切ってくれい。家の中にいる哺乳類は犬と猫だけである。犬のコロよ、なんかの加減でLinuxの方のキーボードで「ppp-off」と打ってくれい。そして猫のチャラよ、そのプニュプニュとした肉球でもって「Enter」を押してくれい。もしそうしてくれるのなら、カールのチーズ味を思う存分喰わせてやることもやぶさかではないぞ。
 当たり前だが、そんなことはないのである。以前コンピュータのリセットボタンを猫と母上に押されて以来部屋のドアをしっかりと閉める癖がついてしまっている。だから犬猫父母はわたしの部屋に入ることはないのだ。そして恐らく犬は二段に積んだ座布団の上でお犬様然と眠っていることであろうし、猫は押し入れの中で惰眠を貪っていることであろう。役に立たない奴等である。そんな犬猫のことを想像していると、ふとテレホーダイのことを思い出した。そういや十一時以降はいくらかけても一定料金だったはずだ。ということはそれまでの電話料金だけを泣く泣く諦めれば済むのである。若干気持ちが楽になる。テレホーダイ時間まで約十一時間、すばやく計算する。一時間二百円だから、二千二百円である。あら、そんなものか。十二時間近くも電話繋ぎっぱなしだから何万円も取られるのかと思っていたのだが、意外に安いのだ。更に深い安堵の息を漏らす。しかし二千二百円。ただディスプレイに「それだけは聞かんとってくれ」を映すだけに二千二百円。それも百回記念のアンケートでつまらなかった方を探していた為、現在ディスプレイに映っているのはわたしがつまらないと感じた雑文である。そんなものの為に二千二百円。せめて面白かった雑文を映したまま出てゆけば良かったとも思うが、今となってはどうすることも出来ない。そして車は軽快に走り、仕事場へと向かう。
 仕事場に到着したとき、天才的なアイデアが浮かんだ。そ、そうだ。たしか家の電話にはキャッチホン機能がついていたはずだ。もしかしたらこちらから電話をすればネットに繋いでいる回線は切られるかもしれない。そういえば過去、パソコン通信でチャットを楽しんでいた頃、後輩から「麻雀しませんかー」という馬鹿な電話が入ってチャットが打ち切られたことがあった。あのときは丁度ギャグの前振りだった所為で悔しい思いをしたのだった。そのことを思い出した途端、事務所がある二階へとダッシュで向かい、そしてタイムカードを押すのも忘れて電話に突進した。震える手で自宅の電話番号を押す。お約束のように「この電話は現在使われておりません」とのアナウンス。自宅の番号もしっかりと押せない程焦っていたのである。深呼吸してもう一度押す。一瞬の間の後プルプルプルと鳴る。成功か。誰もいないはずだから応答するはずもないのだが、何か回線が切れた證拠のようなものを期待している。プルプルプル……、ガチャ。あれ? 誰かいるのか? 
「ただいま留守にしていまーす。この後のピーという音の後、メッセージを入れてくださーい」
 母上の声である。普段とは違った甲高い声である。明らかに外向けの声である。そして子供番組のお姉さんのように語尾を伸ばしている。初めて自宅の留守番電話に繋いだのであるが、こんなのが入っていたのだな。
「ピー」
「…………といったらメッセージを入れるのですよ」
 お約束だ、関西のおばちゃんである。こんなところにまでなんらかしら受けを狙おうとしている。我が母親ながら情けない。その上メッセージを入れる合図である機械音は「プー」であった。
 確認の為、もう一度自宅に電話をかけてみることにする。プルプル……ガチャ。
「ただいま……」
 先程と同様母上の声が聞こえる。これで完璧なはずだ。無駄な二千二百円は払わずに済む。安心である。気持ちに余裕が出来た為か雑音混じりの中母上の声のバックで何かの音楽が流れていることに気付いた。どうやらピアノである。よく聞いてみるとそのピアノは「カーペンターズ」の「Yesterday once more」である。それも下手糞な。どうやら妹演奏のピアノをバックに留守電の声を録音しているらしいのである。少し前に妹が練習していたのを思い出した。
 しかし電話の留守電は他所の人に対するもののはずだ。それなのになんなのだ。これは。我が家は馬鹿家族だと対外的にアピールしているようなものでないか。それにピアノに混じって「わんわん」って聞こえるし。


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