其の88 ゴッホくん


 わたしは悩み相談のウェブページを運営しているのだが、ここ半年以上まったく更新していない。というのもこの雑文ページを更新するので精一杯だからであるが、それ以上にまったく更新していないにもかかわらず、余りに真剣な悩みや奇妙な悩みや怖い悩みが送られてくるからなのである。その悩み相談のページというのは悩み相談と銘打っているにもかかわらず、その実悩みなど解決するつもりなど毛頭ないといった体裁をとったページであって、悩み相談自体を茶化したものなのであるが、そういった文脈を理解できていない人からの悩みが送られてくるものだから更新意欲もなくなってしまったのである。また相談者の悩みが重過ぎるのでわたしには対処できないという理由もある。
 例えばこんな悩み相談が送られてくる。
「私の高校生活は、この男によって、粉々にされた。Kである。私のことをしゃべる、有ること無いことすべてあいつは、広めたのである。無論学校中のいじめの標的にされてしまった。毎日あだ名で呼ばれ、殴るける、金銭の要求、やがて、体の具合が悪くなり入院。先生に報告し、主犯の人たちを、シャットアウトしたけど、皆無ではなかった。Kを野放しにしてしまったからである。高校は、三年間続けられたけど、大学に進学できなかった。あいつのせいである」
 わたしにどうせよというのだ。しかも悩み相談なのか何なのか解らない。あと「主犯の人たちを、シャットアウト」とはどういう状態なのか理解に苦しむ。またここに登場するKなる人物は実名で書かれていたのだが、このメールが届いた後、同じ人物だと思われる人から次のようなメールも送られてきた。
「○島○太、○々○智○、○山○、○野○哉、○友○晃こいつらに、いじめられました、あだ名は、先生にも言われたのです」
 これだけである。怖いよう、助けてよう、暗いよう。泣き叫びたくなるようなメールである。読んだ後背筋が凍りつくようなメールなのである。こんな悩みが結構送られてくるので最近では悩み相談のページなんて開設しなければ良かったなどと後悔することが多い。こっちが助けて欲しいくらいである。ということでもしこの恐怖を共有してくれる奇特な方がおられましたらメールを送って頂ければこっそりお見せします。ただし怖い悩み相談を送ってくる人以外で。
 元々人の悩みを解決するのが好きだという質ではないし、実生活において人の悩みを茶化すのが好きだということもあって友人などから相談をうけることは非常に稀だったのだが、ウェブ上で悩み相談というものを暫くやっているうちに何故か悩みを持ち掛けられることが多くなってきた。仕事柄年少の者と接する機会が多いのだが、彼ら年少の者はわたしの何処に解決してくれそうな雰囲気を感じているのか解らないのだが、妙に信頼してわたしに悩み相談を持ち掛けたりもするのである。
 太田君もその一人である。太田君が眉間に皺をよせてわたしの前に座っている。それだけでわたしはもう半笑いである。そんなわたしであるのにもかかわらず、それでも何かに縋りたかったのであろう。小さな肩を振るわせながらうるうるとした瞳をわたしに向けて訴えるのである。まさに迷える子羊といった面持ちの太田君は途中声を振るわせながらゆっくりゆっくりとわたしに訴えかけるのであった。
 彼の悩みは自分の身体についてであった。それも非常に珍しい特異体質の為悩んでいるということである。譬えば中学生なのに頭髪が薄いだとか、そういう悩みであれば「大人になれば解決するよ」などとアドバイス出来るのだが、太田君の悩みはそれほど簡単ではなかったのである。簡単どころかこれまで聞いたことがないような奇妙奇天烈な特異体質のことで悩んでいるということなのである。それは実物を見たわたしですら未だに信じられないような特異体質であった。
 耳なのである。耳が妙なのである。一見すると徒の耳である。耳というものは普く徒の耳なのであるが、特に変わっているというわけではない。耳たぶがついていて、勿論耳たぶの形状は個々色々あるだろうが、妙な印象は感じられない。
「ううむ、わたしが見たところ徒の耳に思えるが」
「うん、そう。で、でも、でも」
「で、具体的にはどうなのだ。どう変わっておるのだ。君の悩みを解決する為にはその特異体質を逐一報告して貰わないと解決できないんではないか」
 ぶるぶるぶる。太田君は首を左右に振った。どういうことだ。わたしに悩みを解決する力がないことを見破ったのか。
「首を振ってちゃあ解らんよ。ここまで話したんだから言いたまえ」
 ぶるぶるぶるぶるぶる。先程より大きく首を左右に振った。やっぱりわたしが単に好奇心から悩み相談を受けているのが解ったのであろうか。
「ううむ、確かにわたしに君の悩みを解決できるかどうかわからんし、どうせわたしはカレーばかり喰ってる駄目な奴だ。君の秘密を打ち明けるに足る人物ではないかもしれない。それは認めよう。しかし悩みというのは他人に聞いてもらうだけで解決する場合もあるのだよ。そういえばショウペンハウエルという哲学者が『疑問というのは解決するものではない。解消するものだ』と言ってたような気がする。気がするだけなのだが。それは兎も角いい加減わたしに言いたまえ、君の悩みを」
 それでも未だ太田君は首を左右に振るのである。かなりの速度でもって首を左右に振るものだから最早その動きは否定を意味する動作とは言い難く、ヘビーメタルのライブにおける観客のそれに近いものとなってきているのである。このままヘリコプターのように飛んでいくんではないかという不安がちらつくが、それに恐怖する程わたしは愚かではない。
 太田君はようやく首を振るのを止めた。そして彼は自分の右耳を指差すのであった。
「あっ」
 何と太田君の右の耳たぶは耳の穴にすっぽり入ってしまっているのである。一体何が起ったのであろうか。耳たぶが耳の穴に入ってしまうなんて。普通は耳たぶの体積と耳穴の容積とを比べると耳たぶの方が大きいはずだ。総計をとったわけではないが多分そうだ。伸縮自在の耳たぶなのか。それとも異様に柔らかいのか、耳たぶが。しかもである。太田君は頭を振っただけで手などまったく使わなかったのである。
「で、でなあ。それが悩みなのか」
「うん」
「そ、それはいいが、どう悩んでいるのだ。何を困っているというのだ」
「あのね、今は首振って入れたけど、走っているときもこうなるんだ。特にカーブのときに」
「いいではないか。中々いないぞお。走ってる最中に耳たぶが耳穴に入る奴なんて」
「だから困ってるんぢゃないか。走ってるときとか恥ずかしいんだよ。女子も見てるし」
「そうか、やっぱり耳たぶないと恥ずかしいか。君も大人になったんだなあ」
 耳たぶが耳穴に入ると大人なのかどうか解らないが、兎に角どう解決すれば良いかまったく解らないのである。
「どうしたらいいと思う?」
「どうって言われてもなあ。ううん」
「ねえ、どうしたらいいんだよ。僕は」
「ううむ、もしかしたら進化かもしれない」
「え?」
「こういうのは知っているか。猫は知っているな。あの猫って怒ったりすると耳を寝かせるだろ。あれはどうしてだか知っているか」
「知らない」
「あれはな、喧嘩なんかするとき耳が立ってると食いちぎられるかもしれないだろ。だから耳を寝かせて守っているというわけだ。ところがな。大昔の猫は耳が立ったままなんだ。古い種類の猫は今でも耳を寝かせられないんだ。譬えば西表山猫とか対馬山猫は未だにそうだ」
「へえ、それと僕の耳とどう関係あるのさ」
「君の耳たぶは外敵から守る為、耳穴に入るように進化したのかもしれない」
「そ、そうなの?」
「いや断言はできないが、そうかもしれないと言っているんだ。それに耳たぶを耳穴にしまえるなんて色々と便利だぞ。譬えば柔道部に入っても耳たぶが餃子のようにならないし。思い付かないが色々と使い勝手がありそうだ。これを進化と言わずして何と言うのであろうか」
「よく解らないけど、悪いことぢゃないんだね」
「お、そうだ。気は持ちようだ。あ、良い使い方を思い付いた。譬えば君が将来結婚したとする。そのとき耳たぶが耳穴に入ってると……イエス・ノー枕の代わりにだ、ほれ」
「イエス・ノー枕って何?」
「まあ、いいだろ。兎に角だ。耳たぶが耳穴に入るなんていいことばっかりぢゃないか。わたしも入るものなら入れてみたいと思うくらいだ。入れるところがあれば入れてみたいと切実に思ったりもしていたりもするのだが」
「ふ、ふうん。そうか。ちょっとは気が楽になったよ」
「お、そうかそうか。良かった良かった。一時はどうなることかと思ったぞ。あんまりにも深刻な顔をしてるからさあ」
「じゃあ帰るね」
「お、そうか。ゑゑと帰る前にだな、頼みがあるのだが」
「なに?」
「ちょっとそこを走ってみてくれないか。いやもう一度だな、耳が入るところをだな」
 機嫌良く帰ろうとしていた太田君は最後のわたしの一言で気分を害したようで、ぷいとむくれて走り出して行ってしまった。すぐさま追いかけたのだが、既に太田君は階段まで走り去っていた。階段の上から下を見ると太田君の後ろ姿しか見えなくなっていたのだが、わたしは太田君に声をかけた。
「おおい、わたしが悪かったー、太田くーん、それでなあー、今なあ、こんなこというのも何だがなあ、耳たぶ入ってるぞおー」
 きっとわたしの方を睨んだ太田君は髪をかきあげるワンレンのお姉さんのような仕草で耳たぶを耳穴から出すと、再び走っていった。耳たぶを気にしながら。


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