其の108 犬話


 目覚めると居間に父上がいるのである。ほぼ昼といってもよい時間で、普段の父上ならば仕事に行っている時間である。わたしが珍しそうに父上の方を眺めていると父上は照れ臭そうに言うのだ。
「うん、今日な、朝、雨が降ってたんだよ。それで散歩に行けなかったから」
 こ、この親父、犬の散歩に行く為に仕事を休みやがったのである。もう勝手にしてくれと言わんばかりに新聞を見ていると父上は犬のコロ君と昼間というのに人目もかまわず危険な遊戯を始める。ううん、コロ君でしゅねえ。散歩、また行きましゅか。んー、そうかそうか。平日なのに父上がいる。コロ君、この突然転がり込んできた幸福にいつもより機嫌がよさそうである。わんわん。そうかそうか。わんわん。また行きましゅねえ。最近、わたしの周りはこういう喋り方をする人ばかりなのだが偶然なのだろうか。呆れて父上の方を見ていると、わたしの視線に気づいた父上は、暫くコロ君の方を眺めてから「ああ、どうだ。お前もやるか?」とコロ君をわたしに手渡そうとするのである。「いや、遠慮しとく」と断ってわたしは仕事へ出かける準備を始めた。
 しかし犬である。このコロ君、わたしの父上が犬親父だったから良かったものの、犬に対してまったく愛情を感じていない人にもらわれていたらこの幸せもなかったのであろうな、そう思うと感慨深いものがある。
 犬といえば有名な話がある。清朝の頃だったか、イギリスの高官が支那の役人にプレゼントすることになった。しかしイギリス人の高官は支那人がどんなものを好むかよく解らず、そこで悩んだ揚げ句、猟犬を送ることにした。支那人はこのプレゼントに喜んだようで、お礼の手紙をすぐイギリスの高官によこした。手紙の文面はこうである。
「この度は結構なものを頂き、まことにありがとうございました。大変おいしゅうございました」
 「支那人は四つ足のものは机以外何でも食べる」とはよく言ったもので、猟犬も食材にしてしまうのである。実はこの犬の話には後日談がある。
 お礼の手紙を読んだイギリスの高官は、秘書に文句を言いにやらせた。しかし秘書は夜中になってもなかなか帰って来ない。心配になった高官が迎えに行くと、玄関に現われた支那人は満面の笑みを浮かべてこう言ったという。
「大変結構なものを頂きありがとうございます。おいしゅうございました」
 実はこの秘書と愛人関係にあった高官はその支那人の言動にかっときていきなりピストルを支那人に向けた。するとその支那人はピストルを見るのが初めてだったようで、ピストルを向けているにも関らず気にせずどんどん近づいてくるのである。そしていきなりピストルに触りだし始めたのである。あっけに取られたイギリス人は支那人にされるがままになっていたところ、今度はその支那人、ピストルを口に咥えはじめたのである。そしてバクバクかじりはじめた。そして一言、「大変結構なものを持って来られてありがとうございます。おいしゅうございました。ただもう少し油通しをした方がよろしいかと思われます」。恐怖にかられたイギリス人はそのままピストルを乱射し、そして弾は支那人の胸にあたった。そして息絶え絶えにこう言ったという。「大変結構なものを頂きありがとうございました。おいしゅうございました。ただ今度頂くときは口から入れて頂かないと味が解りません」。たしかこの事件が引き金になってアヘン戦争が始まったと聞く。
 この話から解ることは支那人は何でも食材にしてしまうということではなく、ピストルを食べてはいけないということである。そしてこちらが相手に危害をくわえようとしているにも関らず、ずんずん近づいて来る人間というのはかなり怖いということである。
「ち、近づくな。近づくと、撃つぞ」
「え、どういうこと?」
「だ、だから、これ以上近づくと、お前を撃つと言っているんだ」
「え、何々、近づいたら僕を撃つのお。それどういうことなのかなあ」
「ピストルを持ってるんだぞ、解っているのか」
「ピストル? 何それ」
「わああ、ち、近づくなあ」
「え、何持ってるの。かっこいいなあ。それ」
「ぴ、ピストルってのはなあ、この引き金をひくと、この穴から弾が出てだなあ、それにあたると、死ぬんだぞ」
「ええ、凄いなあ。弾が出るんだ。この穴かあ」
「わああ、止めろ、穴に指を突っ込むんじゃない。本当に撃つぞ」
「撃つとどうなるのかなあ、僕わかんないなあ」
「撃つと、撃つとだなあ、指が粉々になるんだ」
「そうなの。じゃあ痛いのかなあ。指が粉々になるんだ。気をつけてね」
「ぎゃあ、お、お前の指がだあ」
「ええ、僕の指が痛いのお、そんなのずるいや」
「ずるいとかそういうんじゃなくてだなあ」
「でも、さっきこの穴から弾が出るって言ってたよねえ。でも指を入れてたら弾が出ないんじゃないかなあ」
「ぐ、そ、そういえば、ピストルが暴発するっていう話を聞いたような、いやそんなことない、お前の指がくだけるだけだ」
「本当? じゃあ試してみようよ、ねえ、やってみようよ、ねえ、お願い」
「何言ってるんだ、お前の指がつぶれるんだぞ」
「早くやろうよ、早く撃ってよお。早く撃たないと僕、怒っちゃうよ」
「な、なに……」
「早くしてよ、五つ数えるうちに撃たないと本当に怒っちゃうぞー。ごー、よんー、さんー、にー……」
「わあああああああああ」
 何も知らないということは案外強いかもしれないということが解ったりするのである。
 それはそうと犬の話に戻るが、父上とコロ君が寄り添うように寝ているのを後に仕事へ行ったのだが、その日の帰りしな、父上がコロ君を散歩させているのに遭遇した。何でも本日五回目の散歩ということである。
「だって、コロが言うんだ。お散歩行きたいよー、お散歩行きたいよーって」
 犬というものはそんなこと言わないし、ましてや語尾を伸ばして喋ったりしないものである。


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