其の117 サブリミナル万歳


 心理学などといってもわたしの知識はせいぜい性格判断どまりのもので、しかしそれすらも酒の席で婦女子相手に「今、目の前にコップがあります。その中に入っている水の量はどれくらいですか」という程度のものであって、真面目に心理学を研究されている人にはそんなものは心理学ではないと叱られかねない知識しか持ち合わせていない。フロイトだとかユングだとかいう著名人を知っていたり、リビドーだのタナトスだの集合無意識だのシンクロニシティだのといった言葉くらいは聞いたことがある、その程度のものである。そういうわたしであるからこれまでサブリミナル効果というものは現実に効果があって、現在でもテレビや映画というメディアでは禁止されている危険なものであると信じ込んでいた。
 サブリミナル効果というとニュージャージーの映画館で、映像の中に「ポップコーンを食べろ」だの「コーラを飲め」といったメッセージを五秒毎に三千分の一秒フラッシュさせたところ実際にポップコーンやコーラの売り上げが上がったという実験が発端だと言われているが、後にこの実験を行ったとされる人物の告白によると実際にはこんな実験は行われていないということであって、結局マスコミによって独り歩きしたよた話であったようである。こういう話は直に学者などが否定したりして決着がつくものだと思うのだが、怪しげな話に限って学者が否定すればするほど逆に信じ込む人々がいて、またそういう人はメディアに登場しやすいこともあってかなかなか真実が伝わらない側面もあり、そういうのも手伝って最近までわたしもサブリミナル効果などというものが今も猶人の無意識下に情報を刷り込む恐ろしい現象だと信じ込んでいたのである。
 そういうわけでサブリミナル効果の出自の怪しさを知った今となってはサブリミナル効果なるものの劇的な効果を信じていなかったりするのだが、何でも調べたところサブリミナル効果がまったくの無駄な代物ではないらしいのである。その反応によって思わずポップコーンを買ったりコーラを買ったりすることはないらしいのだが、それでも何らかしらの反応はあるとのことである。つまりサブリミナル効果を期待してもその通りの結果が得られるわけではないが、その対象とされた人物には僅かなれども意識下に反応を起すということである。ということはである。こちらの頑張り次第では何らかしらの反応があるということではないだろうか。それがこちらの期待通りではない確率は高いにしてももしかすると努力次第、そして運次第では人を思うままに操ることが出来る可能性をもったものであるとも言えないだろうか。
 そこで現実的でかつ利用価値のあることを考えてみることにする。たとえば職場で上司に叱責されていたりする。人というのは完全に相手に非があるとなると途端に残虐性を帯びるもので、わたしの上司も例に漏れず段々と話が膨らんでゆきかなり長い時間わたしを叱責することになる。こういう場面では同じことをくどくどと何度も繰り返すことが多く、叱られている方はうんざりするものである。そこでその叱られている時間を短縮するサブリミナル効果だ。「右手の人差し指と左手の人差し指をつきあわせぐりぐりと回す」というのを一秒間に五回転ほどするというのはどうだろうか。これは傍目にも叱られている方の反省の色が見える行為だしかつ叱るのが情けなくなるほど情けない行為である。もちろんサブリミナル効果なわけだから相手にこの行為を見られてはいけないし、また見られたら余計に反省の色が見られない、ふざけていると取られる行為なわけだから机の下あたりで行うのが良いように思える。しかしこの行為を頻繁にそして高速にそしてちらりちらりと何をしているか悟られないように行えば、何らかしかの反応はあるのである。もしかすると突然機嫌がよくなることだってあるはずだ。嗚呼、サブリミナル効果万歳。
 また相手が目上の人物であるが為に思い切って文句も言えないような状況がある。憎んでいると言ってもよいくらいの人物である。しかし彼は鈍感なのかまったくこちらの気持を察することができない。またそういう人物に限ってこちらのことを気に入っていたり遊びに誘ってきたりするのだから堪らないのである。そこで相手が誘って来ないようにするサブリミナル効果である。並んで歩いていたりするとき出来るだけ相手の影を踏むのである。特に頭の影を踏むのである。ぐりぐりと相手の影を踏み付けるのである。だいたい一秒間に三回くらい踏み付け、そして太陽の方角、日の傾き具合、そういったものをすべて計算しながら高速にぐりぐりと踏み付けるのである。これも相手に見られたりするとこちらに敵意があることがばれてしまう上、その行為の条件がかなり厳しいので実行するのは難しいかもしれないが、それでも繰り返し根気よく続けていれば必ず何らかしら反応が相手に刷り込まれるのである。そしてどちらも傷つくことなく自然と疎遠になってゆくかもしれないのである。嗚呼、サブリミナル効果万歳。
 また女性といった目上の者と食事に行くことになったりする。こちらから誘ったのだから食事代などは当然こちら持ちである。できれば安くあげたいところだが、流石に「高い店は駄目」とは言い出せないし、誘うときに「何でも食べたいものを食べていいよ」などと財布の割に度量の大きいことを言ったりしたものだから、その店の敷居の高さに後ろ向きに倒れてしまうような店でも、また支払いが可能かどうか心配するあまり美味いかどうかすら解らないほどの店でも、また急にお腹が痛くなってくるような店でも我慢しなければならないのである。そこでサブリミナル効果だ。
「ええと何にしようかなあ」
「何でも好黄なものでいいよ。ちょうどボーナスも入ったことだし」
「ええ大丈夫かなあ。じゃあお言葉に甘えて」
「ああ、大丈夫大丈夫。好黄な店を選んでよ」
「ううんとねえ、フランス料理なんか食べ」
「あ、あんなところに黄色いフォルクスワーゲンが!」
「え、どこどこ?」
「あ、さっ黄、左折しちゃった。見逃した? 一日に黄色いワーゲンを五台みたら幸せになるんだって」
「ふうん、でフランス料理なんかはどうかな? 駄目?」
「ああ、食べたいんだったら構わないけど。そういえばこの間会社に九州出身の人が黄てねえ。いまどき、おいどんはとか、語尾にじゃーいとかつけるんだよね」
「へえ、面白いねえ」
「面白いんだよ。カレは。ほんと面白いんだよ。カレ」
「ふうん。でねえわたしフランス料理の美味しいところ知ってるんだ」
「そう、じゃあそこ教えてよ。あ、関係ないけど国道何号線ってあるよね。それ英語でなんて言う?」
「ルート何たらでしょ」
「そうそうルーと、そうだったルーとだよなあ。ど忘れしてたよ。ルーーーとだよな」
「それがどうしたの?」
「いやいやちょっと思い出せなくて。また関係ないけど最近インディアンのことネイティブアメリカンというらしいね」
「そうなの」
「やっぱりインディあんはインド人という意味だしなあ、ま、どうでもいインディだけど」
「あ、もうすぐだからそのフランス料理店」
「え、もうすぐなの。早いな。早いと言えば吉野屋だよね」
「そう」
「別にいインディんだけど。そうそうビートルズの曲の中にイエローサブマリンっていうのがあるの知ってる?」
「うん」
「いいよなあ、イエローサブマリン、略してイエロー」
「それがどうしたの? 店もうすぐだよ」
「別にいインディだけど」
 などという会話を根気良く繰り返してゆけばもしかしたらその女性がフランス料理店などへは行きたくなくなるかもしれないのである。嗚呼、サブリミナル効果万歳。
 そして他にもこちらが眠いのに相手が話を続けたがるといった場面で「両手を合せて右と左のほっぺたにくっつける」のを高速にさり気なく挿入するといったものや、急に性欲が高まってきたときに「親指を人差し指と中指の間に高速に出し入れする」といったものが考えられる。
 ということでこの雑文において、読んでくれている人にわたしが期待している反応は「面白がる」ということなのであるが、これだけサブリミナル効果が使えるかもしれない可能性を見いだしたわけだからもちろんサブリミナルな効果を挿入してある。ただ気になるのはさっきわたし自身で実験したところその効果はまったくなかったという点である。ということはこれまで考えてきたサブリミナル効果は実行しても無駄かもしれない。


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