其の127 逃げきって欲しいのだ


 (あらすじ)
 人が良い、というよりもかなり間抜けな男(駄目)は親切心から倒れている人に声をかけたところ突然背後から顔面に蹴りを入れられ、何故こんな目に会わなければならないんだと己の不幸を噛み締めながら、「自分のことすらどうにかできない人間が他人に手を差し伸べるなんて傲慢だ。これからは人に親切にすまい」と未だ眼球に残る内出血を鏡で見ながら己に言い聞かすのであった。

 ということで現場に立ち会った警察官の「診断書がなければ被害届は受理できない」というちょっと納得できない主張に疑いながらも、素直に病院で診断書を書いてもらい管轄の警察署に向かったのである。大阪は十三という場所での事件であるから淀川警察署に被害届を出さなければならないのである。被害者なのだから堂々としていれば良いのであるが、どうもおどおどしてしまう。何も悪いことをしていないのに根が小心者なので「もしかしてこれまでの悪事がすべて明らかにされてしまうのではないか」だとか「いきなりライトを顔に突きつけられてカツ丼を喰う羽目になるのか」だとか「やってもいないことをつい『わたしがやりました』と謝ってしまうのではないか」だとか様々な不安が過る。受付に行き、刑事課はどこかと訊ねる。受付の初老の警察官は訝しげにわたしの顔をじろじろと見回す。
「どうかしましたか」
「ええと、先日ですね、十三でいきなり殴られまして、交番に駆け込んだんですけど、そこの警察官に被害届を出すように言われましてですね……」
 いきなりしどろもどろである。説明が難しいのである。それにわたしはどちらかというと殴られるよりも殴っている方が似つかわしいような服装をしている。怪我を隠す為伸び放題の髪の毛が殆どゲゲゲの鬼太郎のように目を覆っている。怪しげである。受付の警察官はわたしの焦っている様子をじっと見て「二階」とだけ言った。「どうもすみません」。こんな傲慢な態度にでもつい下手に出てしまうのであった。
 二階へ行くとプレートに「刑事課」とある部屋に向かった。この中に刑事がいるのだ、そう思うだけで緊張する。やっぱり「ボス」だとか「山さん」だとか「殿下」だとか「マカロニ」だとかいう言葉が飛び交っているのだろうか。それともサングラスをした黒尽くめの男が「し、の、ぶ、ちゃん」だとか言っているのだろうか。緊張しながらも期待に胸を膨らませて部屋へ入る。
 中にはスーツを着た男やラフな格好をした男が談笑している。やっぱりドラマのように制服を着ていないものなんだなと妙に感心してしまう。
 わたしが部屋に入っても誰もわたしの方を見ようとはしない。無視しているのかそれとも本当に気づいていないのかわからないのだが、誰もわたしに声を掛けようとはしないのである。そこでわたしは勇気を出して言った。
「すみません」
 すると談笑している刑事のうちの一人がわたしに気づき、そしてわたしの前にやってきた。
「どうしましたか」
「ええとですね、被害届をですね、出したいのですけど」
「あ、そう。じゃあそこに座って」
 わたしの前にいる刑事はラグビーのユニフォームのような白地に青い横縞の入った上着にジーンズである。わたしは心の中で「ラガー」と呼ぶべきか「ジーパン」と呼ぶべきか迷ったが、がっしりした体で丸顔であったので「ラガー」と呼ぶことに決めた。そのラガーは辞書のような分厚い地図帳と一枚の紙を前にわたしに質問し始めた。
「で、どういうことなの」
 これまで何度も聞かれて慣れているのか、わたしは緊張していたにも関らずよどみなく事情を説明した。ラガーは太い指を器用に動かしてメモを取る。
「だいたい解りました。ええと、それで場所はですね、どこになりますか?」
「たしかフレンドリー商店街とかいう場所です。立ち会った警察官が言ってましたから」
「フレンドリーねえ、あなたにとっては全然フレンドリーじゃなかったみたいだけれど、ふぁふぁふぁ、ここかな?」ラガーが地図帳をわたしに見せる。
「そうです、そこのカラオケ屋さんの前です」
 先の雑文では松屋を出たあとだと省略したが、実は松屋を出た後しばらくしてとある漫画喫茶に入っていたのである。
「ふうむ、じゃあもう一度確認しますね。食事をする為松屋に入ったあなたは次に漫画喫茶に入ったと。それは何時くらい?」
「十一時は確実に過ぎていたと思います」
「それからあなたはどれくらいその漫画喫茶にいたの?」
「ええと、閉店までいましたから二時までです」
「だいたい三時間くらいですね」
「そうです」
 という具合にこと細かにその日の状況を質問される。そんなことまで言わなければならないのかと思うくらい細かいことまで質問するのである。こういう場でいつものように嘘をついたりオーバーに言ったりすると偽証罪になるのではという、今から考えるとちょっとどうかしている不安もあって、ありのまま正直に一々ラガーの質問に答えた。交番に駆け込むまでの話したところでラガーはメモしたことを被害届に状況を書き始めた。
「一応これでいいか読みますね。間違っていたら言って下さい」
 そうしてラガーは被害届に書かれた文を大きな声で読み始めたのである。
「わたしは三月五日の午後十一時頃漫画喫茶に入りました。そこでまず『大甲子園』という漫画本を読んでおりました。犬飼知三郎というキャラクターが出てくるあたりを過ぎて満足したわたしは気分転換に別の漫画本を読み始めました。『キン肉マン』です。ちょうど第二回超人オリンピックでテリーマンというキャラクターが小犬を救う為に新幹線を止めたあたりで小腹のすいたわたしは店員にカレーを注文しました。おいしかったです。食べおわったときに時計を見るとだいたい一時五十分くらいでしたのできりの良いところで漫画本を棚に返しレジにて清算を済ませ、店を出ました。そして車を駐車してあるところまで歩いて行く途中カラオケ屋の前で倒れている女性を見つけました。介抱するため背中を触っているといきなり背後から男がやってきていきなりわたしを蹴りだしました。とっさに避けたのですが顔面に何度か蹴りが入りました。そしてそこから逃げ出して交番に駆け込みました。これでいいですか?」
  失笑している刑事がいる。ラガーはにやけておる。こいつはわたしのことを馬鹿にする為でかい声で読んだのだな。くそう、は、恥ずかしいじゃないか。こうなったらできるだけ抵抗してやるのだ。
「ちょ、ちょっと違ってるところがあります。カレーですが、本当はカツカレーです。それにおいしかったとは言っていません。むしろカツがぱりっとしてなくて不味かったと言ってもいいくらいです。それにカラオケ屋の前に倒れている女性と書いてありますが、その時点では女性かどうかわからなかったのです。これではわたしが女性が倒れていたから近付いたみたいな表現になっているではありませんか。そ、それにですね背中は触ってません。軽く叩いたのです。これでは痴漢のようではないですか。あとですねえ……」
「まあまあ、そんなにむきにならなくても。ちょっとした違いじゃないですか。わかりましたからここ消しときますね」
 ラガーは笑いを堪えながら「カレー」の部分を「カツカレー」に訂正し、「おいしかったです」というのを消した。そして「女性」という部分を「人」に「触って」を「叩いて」に変えた。
「これでいいですか」
 色々と不満が残るがもうこれ以上この場にいられなくてわたしは首肯した。そして訂正箇所に印鑑をついた。
「それではこれで一応受理されたことになりますから。でもその相手は捕まるかどうかわかりませんよ」
 そんなことはわかっておるのだ。後々面倒なことにならないように被害届を出しただけなのである。それなのにラガーは更にわたしを辱めようとするのである。
「まあ、十三はねえ、たちの悪い人間がいるからねえ、いくら漫画が好きでも程々にね」
 くう、普段はそんなに漫画を読まないのだ、これではいい歳しているのに漫画好きな幼稚な男扱いではないか。
 警察署を後にしたわたしは殴られたこと以上にラガーの態度に憤りを覚えるのであった。
 しかしいくら緊張していたとはいえもっと冷静に対処すればよかったと今になって思い返しているのであるが、それにしてもどうして漫画喫茶で読んでいた漫画の種類や食べたものまで被害届に書かなくてはいけないのか疑問が残る。あ、そうか。もしかして何かの拍子にわたしを殴打した人物が捕まって今回の事件について裁判か何かで争われるのか。裁判官が法廷で読み上げる。「……テリーマンが小犬を救う為に新幹線を……」
 切に願う。犯人よ、どんなことがあっても捕まらないで欲しい。


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