其の135 なのだである


「それはちょっと理不尽じゃないか」と考えるのはもちろん人であって、ゴルフ場建設反対運動をしている人が立てたと思われる看板に「ぼくたちをどうして切ってしまうのですか」と泣いている樹木の絵が描かれていて、ゴルフ場建設の理不尽さを訴えたりするが、これも本当に樹木が言っているわけではなく、反対運動をしている人が考えている理不尽さを樹木に代弁させているだけだし、また牛が「モー喰われるのはいや!」などとその理不尽さを訴えたりもしない。あくまで理不尽さを感じるのは人である。そして人というのはこの理不尽さから如何に逃れるかということをずっと考えつづけてきて、たとえば台風によって屋根を吹っ飛ばされる理不尽さから逃れる為に頑丈な家を作る技術を磨いたり、突如襲われる病気という理不尽さから逃れる為に医学を進歩させてきたし、不味いカレーを喰わなければならないという理不尽さからカレー屋「インディ」に通いつづけるのである。このように人は常に理不尽さから逃走してきた。しかし理不尽さというものにも様々な種類があって「まったくもって理不尽だ」と皆が太鼓判を捺す理不尽さもあれば「それくらいの理不尽さは我慢しなくちゃ」という理不尽さもあれば「え? そんなのが理不尽なの」と逆に質問されてしまうような理不尽さだってあるのである。誰もが認める理不尽さは別に問題はない。人類の進歩という大きな目で見ればいつかは解消される理不尽さだからである。しかし小さな、それも個人に降りかかってくる理不尽さというものは本人以外誰も解消しようとするものがいない。だから理不尽さを感じている当人は非常に困ったことになるのである。
 たとえばそれは渾名である。渾名というのは本質的に理不尽なものを抱えていて、まず本来の名前があるのにもかかわらず、それを呼ぶのは面倒だという非常にわがままな理由によって命名される。折角の名前なんだからきちんと呼んでやれよと思うが、それでも人は面倒さを逆手に命名するのである。しかもである。面倒だから、言いにくいからという理由で渾名をつける癖に「佐藤さん」を「さとちゃん」などと殆ど面倒さを解消していない渾名をつけるのである。まったくもって理不尽である。しかしこの理不尽さは個人的な理不尽であるため人類の進歩によって解消されるわけもなく、ただただ当人のみが困惑するのみなのである。
 まだこんなのはいい。「さとちゃん」というのは呼ばれてそれ程恥ずかしいものではないからである。しかし「桝村くん」は大変だ。「まっすん」などと非常に間抜けな渾名をつけられてしまうのである。「まっすん」平仮名で書くと余計にその間抜けさが浮かび上がってくる。まず小さな「つ」が入っているのが間抜けだ。そしてそれに続く「すん」という響きが更に間抜けさを後押しする。それにしても「すん」て何なのだ。「すん」て。また改めて「まっすん」と書くと「桝村くん」の「ます」を「まっすん」に引き伸ばしただけであることに気づく。そんなところを引き伸ばすなよと言いたくもなるというものである。
 また由来に理不尽さを含んでいるものもある。その男は笠山雄三というちょっと若大将な立派な名前を持っているのにもかかわらずサムと呼ばれていたりするのである。どう見ても外人に見えない明らかに日本人の容姿をした笠山君なのに「サム」なのである。あるとき友人に「サム」を紹介されたとする。
「ええっと、こちらが笠山くん。通称サム」
「どうも、サムです」
 こんな状況に置かれたとしたら誰だって「サム」の由来を知りたくもなるというものである。流石に由来も知らないで「サム」と呼ぶことには抵抗がある。それなりの理由であれば「サム」と呼ぶこともやぶさかではない。そこで初対面にかかわらず思い切って訊ねてみたりする。
「あのお、どうしてサムなんですか」
「ま、話せば長くなるから。取り敢えずサムって呼んでよ」
 などとかわされたりすると、ほんと取り敢えず「サム」と呼ぶしかないのである。そこでこちらは勝手に「サム誕生秘話」を想像する。
 あるとき笠山君は仲間と酒を酌み交わしていた。下戸の笠山君は静かに皆の会話を楽しんでいた。ところが酒癖の悪い北野君が「おい、笠山。何か面白い話をしろ」と言い出したのである。困った笠山君は中学校の頃の話をする。中学の英語の時間に寝ていたらいきなり先生に当てられたんだよ。ほんとに寝てたから何を答えればよいかわからないんだよ。それで先生にもう一度言って下さいと言ったんだ。すると先生は黒板に大きく「SAM」と書いてこれを読めと言ったんだ。俺はそのまま「サム」って答えたんだ。以上。終わり。そのときから笠山君は「サム」になったのである。完。
 などという「サム誕生秘話」を想像するのだが、何から何まで理不尽さでいっぱいなのである。「サム」の由来から「サム」と呼ばれることに何ら痛痒を感じないサムくんの感性や、そして「サム」という外人の名前を呼ばなければならないことや。それはもう理不尽さで溢れているのである。
 そしてわたしの渾名だって理不尽さで溢れている。わたしの名字は「渡部」というのだが読み方は「わたべ」である。それなのに何故か「ナベ」と呼ばれるのである。言われている当人も言っている周りの人間もその渾名がどういった経緯でつけられたかまったくわからないのである。それなのに「ナベ」である。よくよく考えてみると「ベ」しか合っていない。それほど考えなくても「ベ」しか合っていないことはわかる。おそらく「ナベ」と言い出した人物はこう考えたのだろう。「わたべ」→「わたなべ」→「なべ」。わたしの名字の「わたべ」と渾名の「ナベ」の間にはわたしにとっても渾名でわたしを呼ぶ人にとってもまったく無関係な「わたなべ」さんというものが存在するのである。まったく人を馬鹿にした命名法である。もしその「わたなべ」さんが「真夜中仕事場の机にほっぺたをくっつけるのが好きなわたなべさん」だったらわたしはどう対処すれば良いのだろうか。それが「家中の時計を数分間進めることによって遅刻を減らそうとしているわたなべさん」だったらわたしはどうすれば良いのだろうか。また「ギターのコードのFを押さえられなくてギターを弾くのを諦めたわたなべさん」だったらどうしたら良いのか。そして「トンチキ」という渾名の「わたなべ」さんだったら「わたべ」→「わたなべ」→「トンチキ」→「ナベ」ともう何が何だかわからないことになってしまうのである。いかなる「わたなべ」さんが間に挟まろうともわたしはただただ困惑するのみである。
 まったく渾名というのは理不尽なものである。そして雑文のタイトルも理不尽さでいっぱいなのだである。


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