其の136 おにぎり大好き


 あるものが好きだという感情をこぼすことは大人として慎むことであると、往々にして人は説くのだが、それでも好きなものは好きであってこればっかりはどうしようもないものである。もちろん好きなものがあるからといってもその感情を誰か他人に伝えなければならない義務はないのだが、そうはいっても好きだという感情をずっと心に秘めたまま生活しているのも何だか味気ないものがあるし、それに何かを好きだと宣言することによってそこから生まれる他人とのコミュニケーションというものに惹かれてしまうのも一つの情というものである。そういったわけで人はよく己の好きなものを他者に伝えようとするのだが、もっともそれは第三者に公開しても構わないと人が判断したものに限っていて、たとえば「わたしは押しピン、嗚呼押しピンの少し凹んだところが好きなんだ」だとか「ライターのね、シュッっていう音、あれが好きで一晩中ライターを触っているの」だとか「ペグ、ギターの。ペグを巻いてね、弦がきりきりいうのが好きなの。切れそうで切れないぎりぎりのところを楽しんでいるの。それで会社を辞めたんです」だとか「はさみ、はさみが好きなんです。切れるほど」といった他人に公言するのはちょっとどうかと思われる好きなものはやはり心に秘めておくものである。というわけで人が己の好きなものを公言するときそれは無難なものに限っていて、ある人は音楽だといったりある人は映画といったりある人は小説だといったりまたある人はカレーだというのである。ところがここに「別に他人に公言してもおかしくないはずなのだが、実際に公言するのは憚られる好きなもの」というのが存在していたりして、我々を惑わせたりするのである。
 それはおにぎりである。何故かおにぎりが好きだというのは憚られるのである。それはおにぎりという取るに足らないものを好きだと公言するのは何だか恥ずかしい、といった種類のものではない。それだったら世の中にはもっと好きだと公言するのを憚られるものがあるし、たとえば小説なんかはちっとも役に立たないし沢山読んでも駄目人間が増えるだけだしといった取るに足らないものなのであるが、小説を好きだと言うことに対して人は戸惑いを感じることはない。こういう例もあるようにおにぎりが取るに足らないものだから好きだと言いにくいというわけではないのである。その戸惑いはおにぎりが好きだという気持とはまったく無関係に生まれる。それは他人にその旨を伝えるときに生じる関係性において現われるのである。
「お、お、おにぎりが、す、好きなんだな」
 思わず吃音になってしまい、語尾は「だな」となってしまうのである。思わず「だな」である。たとえその人が大阪在住のものであっても「好きなんだな」である。これはカレーを喰っているとき「やっぱりインディのカレーは一番ですタイ」の「タイ」とよく似ている。人はカレーを喰っているとき思わず九州人になってしまうのと同様、おにぎりを好きだと公言するとき思わず精神的にランニングシャツに短パン姿になってしまうのである。これは非常に深刻な問題であっていくら「そんな言い方をすまい。もっとスマートにカレーが好きだと言うのだ」と心に誓ったところで無心にカレーを喰っていると思わず「カレーは最高タイ」とカレーの持つ「九州人になってしまう」強制性に抗えないように、「もっと爽やかにおにぎりが好きだと言うのだ。たとえばディカプリオのように」と固く誓ったところで人はおにぎりを好きだという局面になると思わず「お、お、おにぎりが、す、好きなんだな」と言ってしまうのである。理想の告白とは雲泥の差で、唯一の共通点はどちらも俳優であるということだけである。この「おにぎりの持つ強制性」への恐れが人におにぎりが好きだと言いにくくさせている原因なのだ。
 また最初の「お、お、」というのも問題がある。思い切っておにぎりが好きだと言おうとしたとき、またはおにぎりが好きだと言わなければならない局面にたったとき、それはどちらにしても極度に緊張している状態なのだが、そういった状態のとき「お、お、」と言うとそれを聞く者は「こいつ何を言い出すんだ」という新たな緊張感が生まれるのである。勘の良いものであれば相手が「お、お、」と言い出した途端「皆まで言うな。男なら誰だって好きなんだから」と彼の言葉を遮ってしまい、非常に複雑な状況を作り出してしまうのである。こういったことも心配性のおにぎり好きにとっておにぎりが好きだといいにくくさせている要因である。
 他にもある。それはおにぎり自体が持つ不条理性に起因している。おにぎりという言葉は接頭語の「お」というものがあって初めて成立するものである。もし仮に「お」を取ってみるとそれは「にぎり」ということになり、おにぎりの持つ素朴さ手軽さを失った揚げ句あろうことか別の種類の食べ物に成り果ててしまうのである。人が何かを好きだというとき、通常若干の照れを伴うものである。ある女性を好きだと友人に言ったとする。正常な男子であれば「俺、ユミのことが好きなんだ」もしくは「俺、ユミちゃんのことが好きなんだ」とせいぜい「ちゃん」をつけるくらいで「拙者、おユミ殿のことが愛しゅうござりまする」などと好きな対象に敬称をつけたりはしない。これはつまるところ好きなものを公言するときに生じる照れや、また己がその価値を認めているものを他人に尊大にみせつけることを良しとしない日本の伝統的謙譲の精神によるものである。そのような好きなものを公言するときのエチケットを無視するかのようにおにぎりは「お」を外すことを許さない、そういった不条理性をその名称に内包しているのである。これもおにぎりを好きだと人に言えない要因の一つである。
 そして実際おにぎりが好きだと言ったとしよう。好きだというときに生ずる極度の緊張とおにぎりの持つ不条理性を克服して告白したとしよう。ここまで辿りついた者の精神力はかなりのものであるからそれだけで賞賛に値する。しかしである。それほどの猛者による告白であったとしても、「お、お、おにぎりが、す、好きなんだな」の後に「でもおにぎりって米ばっかりだね」と告白者の苦労などまったく考えない発言が待っているのである。たしかにその者が言うようにおにぎりは米ばっかりである。正確にいうと大体が米である。中心部におにぎりの種類を分別する種が入っていて、それは一見おにぎりの本質のような錯覚を起してしまうが実際の主体は米であって、その者の発言は的を得ていると言わざるをえない。更に世の中にはまれに一回の食事をおにぎりだけで済ます変種のおにぎり好きもいて、彼らは鮭、めんたいこ、梅、シーチキンといったおにぎりを目の前にしてめんたいこはスープ、鮭は前菜、梅はメインディッシュ、シーチキンはデザートといった風にコースを組み立てておにぎりを喰ってしまい、素人におにぎりの本質を種だと誤解させる行動をとったりもしている。そのアンチテーゼとして「でもおにぎりって米ばっかりだね」という発言に世のおにぎり好きは真剣に耳を傾けなければならないのである。一般的なおにぎり好きならばおそらくこう言われるだろうことを予想してしまって、つい他者におにぎりが好きだと言うのを躊躇してしまうのである。
 また最近の傾向としておにぎりはコンビニエントストアにて購入するのが一般的になってきているが、それらコンビニで売られているおにぎりの軽薄さ、また勘違いも人格者であるおにぎり好きにとってどうも告白するのをためらわれる要因である。今更「変わり種」を売り物にしているおにぎりについては言及しないが、あろうことかおにぎりの種の王道ともいえる「梅」でさえもがコンビニにおいては非常に情けない有り様になっているのである。梅が入っていると表示してあるのは中身が見えない「おにぎりの宿命」を考えるとしょうがないことであるが、それは兎も角どういうわけかその「梅」と書かれた横に「たね入り」と表示されているのである。梅ならば種が入っているのが当たり前である。しかしおにぎりの中に入れる種としては梅の種は本来不必要なものであって、わざわざ種をとって梅肉を種にしているおにぎりも存在することから、種が入っているというのはあくまでおにぎりを喰うときの障碍であることがわかる。障碍をわざわざ表示して購入者に負担をかけるのを少しも厭わない精神がコンビニの梅にはあるのである。そんな思いやりのないおにぎりが主流になった今、世のおにぎり好きはおにぎりが好きだと言えるだろうか。それにおにぎりの種として入っている「梅」に更に「種が入ってます」と表示することは素人にとっては「じゃあ他のおにぎりには種が入ってないの」と誤解させおにぎりを置いてあるコーナーを素通りさせてしまう原因にもなってしまう上、よくもののわかったおにぎり好きであっても「種の中に種がある」と表示されていることによって「梅の種の中にまだ種があるんじゃないか」とおにぎりの種が永遠に続くという恐怖感を抱いてしまうのである。そういったおにぎりが堂々と売られているのだからおにぎりが好きだと言えない雰囲気になってしまっているのである。
 このようにおにぎりというものはカレーと違って好きだと気軽に言えない存在である。しかし考えてみて欲しい。本来隠しておかなくても良い好きなものを堂々と好きだと公言できない世の中というのは如何なものであろうか。おにぎりはその歴史から考えても本来好きだと言うのに何ら恥ずべき存在ではないはずである。それにもかかわらず自由におにぎりが好きだと言えない世の中というのはどこか間違った方向に進んではいないだろうか。我々人類はこれまでの歴史が證明しているように徐々に人類の抱える問題を克服してきた。今となってはその人類の叡智によっておにぎりが好きだと自由に言えない雰囲気が払拭されることを期待するしかない。


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