其の142 大鶴ギター


 これまで何度か書いてきたがわたしの趣味はギターを弾くことである。ギターは楽しい。こういうとわたしの周りの人間ならば「下手の横好き」という言葉が脳裏に浮かんでいるかもしれないが、それは違う。それはわたしに対する侮辱である。名誉毀損で訴えても良いくらいである。これまで一度だって横なんか好きになったことなどないのだから、下手であることは不承不承認めてやるが横好きと呼ぶことだけは即刻やめてもらいたいものである。
 それにしてもこれまで「リズム感がない」だの「ピッキングが下手」だの「ストロークが下手」だの「頼りない」だの「口元にカレーがこびりついている」だの「部屋が汚い」だの「生命力に欠けている」だのとギターに関する言われなき雑言を浴びてきたわけであるが、最近ここらあたりできちんと弁明しておかないと本当にギターが下手くそであるという烙印をおされかねないのではないかという危機感を感じ始めている。そこでわたしのギター演奏が如何に巧いかを論理的に證明しようと思う。
 実際のところわたしのギター演奏は素晴らしい。聴くと笑えるくらい素晴らしいギター演奏をすることができるのである。それはわたしの演奏風景を述べればわかってもらえると思う。
 ギターの演奏はギターを抱えることから始まる。間違ってもギターのネックの上で五目並べを始めたり、鉄道模型を走らせたり、また頭に載せながらバランスをとったりはしないし、箪笥を担いだりもしない。基本に従いギターを右の太股の上に乗せ左の太股には猫を乗せる。そしておもむろにバランと適当に弾いてみる。チューニングが狂っていないかを瞬時に判断するのである。自分の妥協できる範囲において正しいかと思われるチューニングであればそのまま弾き始めるし、また狂っているような気がすれば己の感性に従って狂った弦を正しい音に合せたり、気分や天気によってはそのままにしておく。次に指慣らしを始める。適当にコードを弾いてみたりする。いくつかのコードを押さえ指が暖まり始めると今度は本格的に難しい循環コードを弾いてみたりする。C、Am、Em、Gと聴くものを凍りつかせる戦慄の循環コードを弾いてみたりするのである。しかしまだ無理はいけない。練習をはじめてから数分しか経っていないのだからいくら指が動くからといっても指の筋肉は本格的に始動していない。Fは禁物である。代りといってはなんだがDmでお茶を濁しておくべきなのである。このあたりで弦が指になじんでくる。そこで今度は単音による指慣らしである。ここでもわたしは腱鞘炎対策のため難易度の高い曲をゆっくりと弾いてみたりする。「かえるの歌」や「荒城の月」などをゆったりと余裕をもって弾くのである。十五分も弾いていると流石に指も思いどおり動くようになってくる。これからが本格的な指慣らしである。清水の舞台から飛び降りるような気持でもってカッティングを含めたリフをゆっくりと弾く。しつこいようだがわたしは腱鞘炎になるのをおそれている為あまり速く弾くことはしない。あくまで指慣らしなのだと勢い超絶テクニックを駆使した曲を弾きたいなあと常々思っている己を抑える。ここまでが本格的な練習をするまでの準備である。次に一旦ギターを横において、イメージトレーニングによるエクササイズに入る。今日の気分や天気、そして夕食のメニューなどを考慮しながら、コーヒーなど精神を高揚させる飲み物を傍らに置き、更に昨日買った文庫本などを開き、これからギターを弾くのだという心構えを整えるのである。
 ここまで真剣にギターの練習に臨む者がいるだろうか。これだけ念入りに指慣らしを行う者はプロのギタリストにもいまい。本格的な練習の前段階がこういったものであるから、自ずとわたしのギター演奏の素晴らしさがわかるというものである。
 しかしいくら泡を飛ばしながら演奏前の練習の準備について語っても結局は現場を見せられないのだから、まだわたしのギターの腕前について疑いをもっている不届き者もいるかもしれない。そこで別のアプローチからわたしのギター演奏の巧さを明らかにしたいと思う。
 一般にプロのギタリストのテクニックは目を見張るものがある。人間の指はそんなにも速く動くものかと思わされたり、そんな難しいフォームをして指の骨は大丈夫かと思わされたり、もしギターという楽器がなければそんなテクニックはちっとも役に立たないのではないかと思わされたりするものである。そんなテクニックを持つプロのギタリストに対しては、ギター演奏の難しさ複雑さを理解せず音を楽しんでいる普段ギターを弾いたことのない人も、自分ができないことをすることの出来る人種であると尊敬なり羨望なりを感じたり、どうしてそんなことに夢中になっているのかと呆れかえったり、不潔さに驚いたり、あまりの浮かれ具合に困惑したり、概ねその素晴らしさに関しては認めていることであろうと思われる。そこでこのプロのギタリストとわたしとの類似点を揚げれば、わたしのギターの腕前に疑問を抱いている頭の固い性格の悪い顔も悪い足も臭い人でも納得してもらえると思う。
 まずプロのギタリストはギターを用途に合せて使い分けるものである。激しいリフやソロの入る曲であればエレキギターを使うし、更にはその曲調によってはエレキギターの中でもフェンダーのストラトにするかギブソンのレスポールにするかトーカイのアンプ付き一万五千円の通販ものにするかを決めたりもする。また生音の響きを出したいならばアコースティックギターを手にしたり、クラシックを弾くならクラシックギターを手にしたりフォークを弾きたければフォークギターを手にするし、スティーブ・ヴァイになりたければハート型をしたダブルネックのギターを手にするし、アルフィーになりたければフライングAを手にするし、ジミー・ペイジのように太りたくなければダイエットにいそしむし、リッチー・ブラックモアのようになりたければズラを被ったりもする。このようにプロのギタリストはギターを用途に応じて使い分けるものなのである。もちろんわたしもギターを使い分ける。わたしの家には三本のギターがある。アコースティックギターが二本とエレキギターが一本である。ついでにエレキベースが一本、友人がインドへ旅行へ行った際楽器屋に「これがシタールというものだ」と言いくるめられたシタールまがいのよくわからない弦楽器が一本、犬が一匹、猫が一匹、父上母上妹君がいる。選択肢は趣味でギターを弾いている人にしては多い方かもしれない。これらをプロのギタリストのようにそれぞれの用途に合せて使い分けている。アコースティックギターはギターの演奏をしたいとき、エレキギターは掃除機をかけるときベッドの上に運び、犬猫は寂しいとき、父上母上妹君は借金をするときと、その目的に叶うよう適宜使い分けているのである。
 また素人と違ってプロと名乗るくらいであるから、プロのギタリストはテクニック的に優れているだけではない。そこにプラスアルファの何かがあるのである。たとえばリズムについてである。当たり前であるがプロのギタリストは譜面通りのリズムで演奏することが出来る。しかしそれだけでは機械とまったく同じである。機械で出来ることを敢えて人間がやるのだから正確にリズムを刻むだけでは、反対にプロのギタリストとは言えないのである。そこで彼らプロのギタリストは敢えてリズムを崩すことによって、正確なリズムだけでは味わえない雰囲気を醸し出すのである。たとえばレッド・ツェッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジは「天国への階段」のギターソロのなか、何だか譜割りがあってないのではないかと思える部分をわずか作った。しかしこのことによってかえってこのギターソロが成功したのである。これは意図的にやったことなのか録音のしなおしが面倒だったのかわからないが、兎に角正確なリズムだけでは味わうことのできない素晴らしい演奏を残すことに成功しているのである。わたしも意図的にリズムのずれる部分を作ることによって生まれる効果を常に頭に入れながら演奏をしている。常に考えている為むしろ正確なリズムの部分の方が少ないくらいである。それくらい機械にはできない人間にのみ可能な演奏を心掛けているということである。
 そしてプロのギタリストは演奏だけに意識を傾けるのではない。観客の前で演奏するわけだから効果的な演出をする。ザ・フーのピート・タウンゼントは風車奏法というのを考案した。これは腕をぐるぐる回してギターを弾く奏法である。ジミ・ヘンドリクスは歯引き奏法というものをやった。これは歯で弦を弾くのである。背中弾きというのもある。これは背中をギターで弾くのである。ローリング・ストーンズのキース・リチャーズはあまりに献血が大好きだったのか利き腕を殆ど曲げずに演奏をする。ルー・リードは一弦奏法というものをやった。エディ・ヴァン・ヘイレンはライト・ハンド奏法を考え出した。リッチー・ブラックモアはギターを破壊した。スティーブ・ヴァイは悪魔のギタリストだった。フランク・ザッパはうんこを喰った。ジミー・ペイジは太った。このように名ギタリストというものはギターを弾くのみならず演出に凝っていたり太ったりズラだったりするのである。もちろんわたしにだってオリジナルのギター奏法くらいはある。今のところ実演する機会はないがいつの日かやってくるそのときの為に考えているのである。弦切り奏法である。演奏中にギターの弦が突然切れるのである。観客はまさか演奏の途中に弦が切れるなんて思ってもいないはずである。そこへ突然弦が切れる。チューニングが狂う。リズムも狂う。元々狂っていたチューニングもリズムもこれでごまかせるのである。一石二鳥である。
 このようにわたしとプロのギタリストとはかなり共通している部分がある。殆ど同じと言っても過言ではないかと思われる。少なくとも生物的には同一である。これでわたしのギター演奏がかなり巧いということがわかってもらえたと思う。いくら疑り深い性格の悪い頭も悪い顔も悪い守銭奴の人でも、わたしのギターの腕前がかなりなことになっていることが理解できたことだろうと思う。それでもわたしのギター演奏が下手だと疑う人はこれまで書いてきたことを理解することが出来ないくらい読解力のない人であるか、もしくは騙されにくい人ではなかろうか。
 しかしこれだけの腕前を持ちながら皆さんの前で演奏することができないのが口惜しい。というのもわたしには一つ欠点があって、それは人前ではかなり緊張して万分の一も実力を発揮できないことである。わたしも人間であるのだからわたしの前ですらその実力の千分の一も発揮できないくらいだ。であるから今のところわたしの素晴らしいギター演奏を聴くことができるのは犬と猫だけである。犬猫ともにわたしとは音楽性が異なるのだろうか。わたしの素晴らしい演奏が始まると部屋から出て行ってしまうのがどうも解せない。


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