其の13 呼び助


 言葉は変遷す。これは当たり前のことで、誰もが中高校と学ぶ古文という代物で体験している。
「うじゃあ、なんじゃあこの文章は、これでも日本語か、昔なら切腹ものじゃ」 とか叫びながら古文の解読(というのも変であるが)をしている肉体派の同級生がいたが、昔ならその言葉はただの日本語だったんだってという突っ込みをし、その男が頭を掻きむしっている様子を微笑ましく思っていたものである。まあこんな風に昔の日本語は表記や単語が今と異なるのを誰もが知っているのである。更に言えば平安の頃の古文と江戸期の古文とが全く異なり、時代がこちらに来るに連れ現代語に近づいてくるのも当たり前で、そうでなければ現代語はいつ発生したのかという深刻な問題が生じてしまう。戦後の国語教育によってそれ以前の文章表記と大きく変えられるという場合もあるのだが、大体においては少しずつ現代語に近づいてくるものであろう。特に単語の使用法、意味などは時代を経るごとに今に近づいてくるというのが顕著であり面白い。
 さてここで話は変わるが、進化というものがあるらしい。無論生物についての進化である。らしいとつけたのはこの進化という代物は「進化論」と論をつけるぐらいで、とにかく未だ証明できていないようだからである。証明できていないというのも語弊があるかもしれない。一部の生物、ロンドンに住む蛾の色が煙で煤けた街に適応する為色を黒っぽく変えたという話なども、種が変容してゆく様を観察できた例もあるので単なる「説」に留まらない、より真実に近しい「説」なのであろうか。狂信的なファンダメンタリスト(頭が頭痛みたいだ)以外の人々はこの進化論を受け入れているようである。この説の最大の弱点はミッシングリンク、つまり中間種が発見出来ていないというものであり、これが進化論を受け入れない人々を最も勇気づける素であるようだ。余談であるが、神が天地を創造したとする「聖書のことはほんとにあったんじゃけえねえ」と主張してやまないファンダメンタリストであるが、彼らの理屈はなかなか面白く譬えばこんなのがある。全ての生物は神が造ったものであり、そして全ての化石も神が予め造ったものである。とまあこういう論調なんであるが、これだったらなんでもO.K.の理屈で、神が存在しないことを証明しないことには相手を屈伏させることができない。譬え証明できたとしても丹波哲郎的に「いるんだから仕方がない」と言われれば、こちらはどうしようもないのであるが。
 ときにわたしは進化らしきものを目撃する幸運に恵まれたことがある。言葉についての進化であるのだが、それは小学生の間で興ったことである。
 ある小学生が言った。
「よぶすきしたらあかんのに」
 取り敢えずわたしはその「よぶすき」なる言葉は何であるか問うた。彼女が説明するに、これは「呼捨て」のことのようだ。勿論わたしの住む所とそれ程離れていないので特殊な方言であるはずもない。わたしは優しく「よぶすき」という言葉は間違っていることを告げた。しかし彼女は頑迷に友達は皆そう言うと言い張る。他の小学生に訊ねると二対八くらいの割合で「よぶすき」派と「呼捨て」派に別れた。嘆かわしいことに二割も「よぶすけ」と言う小学生がいたのである。しかしわたしの熱心な教育により彼ら「よぶすき」派は納得した。彼らはどちらかというと発言力の強い小学生であった為、学校中に「よぶすき」という奇妙な言葉が広まっているようなのだが、これで彼らも納得しこの災禍も沈静するだろうと思われた。
 しばらくしてのことである。新しく入ってきた生徒によってわたしは更に驚くことになった。その小学生は言った。
「よびすけ」
 何であろうか、この珍妙な言葉は。「呼び助」とでも字をあてるとでもいうのか。そしてわたしはもう一度彼らに訊ねた。そうすると一対九という割合で「呼び助」派と「呼捨て」派に別れたのである。新興勢力の「呼び助」はあろうことかわたしの説明した「呼捨て」という言葉を「呼び助」と誤解していたのだ。新入生に訊ねると「呼び助」なる言葉はかなり広まっているらしい。確かに「よぶすき」より「呼び助」の方が語感も似ていることだし、末尾を濁せば一応通じるかもしれない。進歩ではある。だが間違っているのは確実だ。わたしは先よりも熱心に汗をかきながら彼らを説得した。これで大丈夫であろう。
 彼らも本当に納得したはずであった。あったというのもこの事件より一ヶ月後、再び「呼捨て」という言葉はどう呼ばれているか訊ねたのだが、恐ろしいことに約1名「呼び助」と言っている小学生がいたからである。彼女の理屈はこうである。わたしの言っていることは理解できる。それが正しいことも知っている。だが折角「よぶすき」から「呼び助」に慣れたのにまた「呼捨て」というのに変えるのは難しい。しばらく待って欲しい。こういうことであった。成る程尤もである。確かに使いなれた言葉をいきなり変えるのは難しい。しかし間違っておるのだ。わたしはまたもや正しい言葉は使わなければならないことを説いた。彼女の暫く待って欲しいという言葉を信じれば、いずれ正しく「呼捨て」という言葉を使いこなすであろう。
 今や「呼び助」派と「呼捨て」派は六対九十四である。「よぶすき」及びこの進化した形の「呼び助」はまさしく淘汰されてしまった。インディアン(最近はネイティブアメリカンというようだが納得できん)の如く最後の砦を守る彼女は適応出来なかった種のようである。彼女はどことなく悲しい。
 わたしは使命感のようなものからか彼らの間違いを訂正したが、彼女のようなこの先淘汰される種は保護せねばならないなあと、最近はこうも思うのであった。 (完) なにが完だ。


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