其の26 つくり笑い


 とうとう今日という日がやってきてしまった。気功の件である。先日母上によってわたしの煙草は無残にも、「気孔してあげる」という言葉とともに変質してしまったのであるが、その効果が現われるリミットが今日なのである。結果的には何もなかったというわけなのだが、どうにも気分が悪い。まだ少し残っているのだから、事故にあうとも限らぬし、コンピュータが暴走して爆発するかもしれないし、なんなら急性肺癌で死ぬかもしれない。気をつけなければならないのである。
 さてどういう表情をしてよいか解らないときがよくある。驚いたときや呆れたとき、そして困ったときはほんとどういう顔をしてよいか解らないので非常に困る。先に困っている上にさらにどういう表情をすればよいかわからなくて困ってしまう。二重苦である。あともう一つで「うぉーらー」と水を片手に叫びだしそうである。特にわたしは笑いに関して閾値が低い割に守備範囲が狭いので、笑うに笑えない冗談を目上の人に放たれたときよく困ってしまう。更に大阪という土地柄か、色々な笑いの種類に通じているだけに、相手がどういう冗談を言おうとしているか丸解りであり辛いものがある。そして何も考えずに笑ってさえいれば良いのであるが、根が真面目なのか、つい真剣にその壷を探そうと必死で対応してしまうのだ。これはかなり厳しい状況である。人格を変えるか、もう一度生まれ変わるかしないと抜け出せないのである。
 大阪の梅田というところに旭屋という大型書店がある。紀伊国屋とともに梅田における大型書店の両雄である。二つの書店は対照的で紀伊国屋が平屋(というのだろうか)で旭屋は七階まである。どちらも沢山の本を置いているので便利といえば便利なのだが、紀伊国屋は平屋なだけに目的の本を探すには広すぎるし、旭屋はいちいち階を変えなければならないので面倒である。本の量というとどちらも似たり寄ったりなのだが、本を買うということは小説を買うこととイコールであるわたしにとって、平面的な紀伊国屋よりは旭屋を贔屓にしている。目的の階に行けばそこは全てがパラダイスな旭屋の方が好きなのである。であるから本を買いに行くときはまず旭屋に行き、そこで見つからなかったら紀伊国屋へ行くということになる。
 旭屋に行くと、まず一階で新刊を物色する。そして文庫のある三階へと進み、そしてコンピュータ雑誌のある階へと行き、また一階に戻る。これを何度か繰り返してから帰ることになる。そして帰りしなには本を入れた袋が小さなものから紙袋へを変わってしまっている。貧乏症なのか、一度来たからには買い込まないと気がすまないのである。などといいながら月に何度か来てしまうのであるが。そういえばわたしに輪を五重くらいかけた本好きの知り合いがいるのだが、その人と神戸の駸々堂へ行ったときのこと。当時駸々堂は出来たばかりで、床も非常に奇麗であり、また本も揃っている。そのときお互い「乞食になったらここに住みたい」ということを零していた。まあ関係無いが。
 さて旭屋であるが、上の階へとあがるには入り口正面にあるエスカレーターを利用することになる。これは最上階の漫画売り場を除けば全ての階へと通じている。またエレベーターもあるのだが、だいたいは誰かが乗っていて、例の気まずい雰囲気に耐えられないので遠慮してしまう。特に一緒に乗った人が「UFOの着陸基地は月の裏側にあった!!」など「!」が二つもついているような本を持っていたりすると、笑いを堪えるのに精一杯で目的階を乗り過ごすこともある。であるからエスカレーターを使うことになる。旭屋には何故か解らないが、上りのエスカレーターしかなく、下りるときは階段かエレベーターしか使えないのだ。最近のビルでは見かけないが「下りるのは楽だからね」という古き良き日本の伝統が見られたりするのも旭屋を贔屓にする理由でもあったりする。その階段の壁には毎年この季節にはカレンダーを展示してあったりもする。カレンダーは皆が触るのでよれよれとなってしまっている。見目麗しきアイドル歌手なんかの歪んだ顔を見ることも一興である。そういえばこの間、大学生らしきカップルの殿方が彼女のいる前で堂々とおヌードカレンダーやセクシーアイドルカレンダーなどを見ていて、彼女が恥ずかしそうに彼氏の袖を引っ張って、カレンダーから引っぱがそうとしている姿などは涙を誘うものがあった。お嬢さん、その男から離れなさい、ぶった切ってやる、と武士ならば刀を抜いているところである。そしてそういうところにはしょぼくれた中年がじっとカレンダーを検分している姿も見られ、悲しい。
 しかしわたしはこんなことを言いたいのではない。さりとて特に言いたいこともあるわけでもないのであるが、それはともかく、梅田旭屋にはひとつわたしを困らせるものがあるのである。先程も述べたが、わたしは一階から三階をうろうろと何往復もする。そのうちに欲しい本は手に入ったりするものなのと、意外なところに面白そうな本を見つけることが楽しいからでもある。そうすると当然何度もエスカレーターに乗ってしまうことになる。これが困るのだ。何故かと言うとエスカレーターの先の二階には英会話の教材の販売員のお姉さんがいるからだ。この年になってもこういう女性はお姉さんだと思ってしまうのであるが、その美しい販売員は満面の笑みを浮かべてパンフレットを渡そうとする。ヤングエグゼクティブのヤングの部分しか合っていない、最近はそれもなくなりつつあるわたしにさえ渡そうとするのである。涙ぐましい努力である。それで一度目にエスカレーターに乗ったときは出来るだけ受け取るようにしている。爽やかな笑顔でパンフレットを手渡す姿はまるで天使だ。しかしそれも一度目だけである。二回目にエスカレーターに乗ったとき、これが非常に困る。向こうもわたしが先程パンフレットを受け取ったことを知っているだけに気まずいのである。それでも二回目はまだよい。三回目になると販売員のつくり笑顔もこわばってくるのだ。わたしも強ばっている。それでも一応会釈だけは出来る余裕がある。それで四回目になるとわたしはどれ程疲れていても階段で登ることにする。あの天使のような販売員にあわせる顔がないからだ。そんなときさっきの中年がまだおヌードカレンダーを眺めていたりすると、「俺ってなんだろうな……」と侘しくもなるのである。
 そんなこともありながらも、どういう表情をしてよいかわからない状況というのは、青い鳥の如く、意外に近くあるものである。母上がなにやら無気味な笑みを浮かべてわたしに突進してくる。そして一言、
「笑顔教室行ってきたけど、どう?」
 どう? って言われてもなあ、その笑顔、笑顔教室で習ってきたって言われてもねえ。
 結論。母上ほどわたしを困らせるものはなし。


[前の雑文] [次の雑文]

[雑文一覧]

[TOP]