其の94 うんばばー


 中学、高校の国語の指導要綱に「古文に親しませよう」というのがあるのかないのかよく解らないが、枕草子、徒然草、方丈記といった随筆や源氏物語、今昔物語、宇治拾遺物語、伊曾保物語、冬物語、遠野物語などとともに平家物語も国語の教科書に載っていたように思う。そういえばわたしの中学時代の国語の教科書にもやはり平家物語はあって、「祇園精舎の鐘の声……」という冒頭の一節とともに、「敦盛の最期」というのが収録されていた。平敦盛の首を斬った後無常感に囚われた熊谷直実は法然に弟子入りして念仏三昧の生活に入るが、その幸せも束の間、一族の相続争いを解決する為領地に戻らなければならなくなる。そして直実は関東へ向かうのだが、その際西方に尻を向けるのは仏に失礼にあたると考えた直実は馬にさかさに跨がり、関東へ向かうのであった。その行為の意味が理解できない伍長は複雑な表情をするばかりであり、軽蔑しているのかしていないのか、直実は彼の表情を読もうとするが、彼は困った表情と悲しみのこもった表情とが入り混じった顔をしていて、直実にはそれが演技なのかそれとも本物なのか判断に苦しむ。それはそれとして直実は行軍の途中、街道の脇を歩く若い主婦でこっそりと自慰行為に耽るのが馬上での唯一の楽しみになるのであるが、しかしこのことが伍長により世間に明らかにされ、そして直実はその恥をそそぐ為、一族郎党の見守る中自刃することなく極楽浄土へ往生してゆく。たしかそういう話だったように記憶している。そして平家物語といえば祇園精舎であり、祇園といえば擬音である。
 わたしは殆どテレビを見ることがないのだが、本日珍しくテレビのニュースを見た。さる御方が進藤晶子とかいうアナウンサーのことをお気に召されたようで、それはデスクトップの壁紙に彼女の写真を使っているくらいのお気に入りぶりで、その人物の「やっぱ、カップヌードルもカレーが一番美味いっすな」の後の「そうそう進藤晶子はニュース23に出てるから」という言葉で、本日久方ぶりにテレビの前に座った。彼女に関する批評はさておいて、今夜のニュースのトップは大阪の高槻に小型の飛行機が墜落して五人の死者が出たというものであった。事故の詳細については新聞なりテレビなりにあるだろうから端折るが、このニュースはやはりテレビのニュースらしく現場付近の住人にそのときの様子を語らせていた。
 最初にインタビューを受けているのは頭の悪そうな中学生たちである。飛行機が墜落したときどんな様子でしたか、という質問に対してこう答えた。
「ばばーーんという音がしてなあ、急いで行ってみたら飛行機が落ちてて……」
 うむ、成る程というか当たり前というか、こういう返答が一番この手のニュースには必要なことなのかもしれない。インタビューを受けるのはやはり市井の民であって、「落ちるときのですね、音がですね、若干ブルーインパルスに似ていたのですぐさま外に出たのですが、遠目に見た感じではどうも大きさが違うと、それで幸い左翼の部分がですね、焼け残っていたようで、それで双眼鏡で確認したところどうもこれはセスナP21ON型機である、そう確信しました」などという航空機マニアのようなのはインタビューには向かないのである。次は三十代くらいの男性がインタビューを受けている。
「ばーん、いや違います。ばひゅーん、ですか、こんな音がしてですね、慌てて外に出てみれば飛行機が……」
 ううむ、ばーんではないのである。ばひゅーんなのである。ばーんとばひゅーんの間には如何なる違いがあるものなのか、彼ならぬわたしには解らないのであるが、やはり先程の中学生とは違い、年を喰っている分、己の発言に慎重になっているのであろうか。
 大阪に生まれたときから住んでいるのでわたし自身はあまり気にならないのであるが、大阪人はやけに擬音を使う人種である、という説がある。言われてみればそうである。たしかに大阪人は会話の中で擬音を使用する頻度がやけに高い。例えば電話で道を訪ねたりする。
「ええと、日本橋のですね、十番出口にいるんすけど、そちらにはここからどういう風に行ったらいいんでしょうか」
「十番出口っすね。ではそこからびゅううとまっすぐ堺筋にそって歩いてもらえると、黒門市場ってありますから、そこをですね、ばあんと曲がって貰ったらですね、ペットショップがどおんとあるんですけど、そこをですね、ずうんとまっすぐ入ってもらってずばっと右です」
 なんて会話をしたりするのだ。大阪人というのは。しかし、ずうんとまっすぐ入るというのもよく解らないし、ペットショップがどおんとあるというのもちょっと違うように思える。
 これは大阪に限らないのかもしれないが、医者もやけに擬音を使用するのである。例えば腹が痛いなどと医者に言うと決まって「どう痛いの」と訊ねる。たしかに医者としては痛い痛いだけでは判断を下すことも出来ないのだろうが、こちらとしては兎に角腹が痛いのであって、どのように痛いのかなどということに頭がゆくはずもなく、「もの凄く痛い、ごっつい痛いんす」と繰り返すばかりである。そこで医者は言う。
「じゃあ、それ、きゅうっと痛いの、それともしくしく痛いの、どっち」
 痛みを擬音化するというのは非常に難しいのではあるまいか。それに選択肢が「きゅう」と「しくしく」では少なすぎるような気もする。もしここで「ずんばばずばばばと痛いんす」などと言えばどう答えるのか見ものではあるが、このように医者からして大阪人は擬音を多用するのである。
 ところでこの「しくしく」というのは品詞で言えば副詞にあたるのだろうが、しかしこれが副詞ではなく形容詞だったらやっぱり活用はシク活用に違いない、などというしょうもない駄洒落でもって、大阪人であるわたしはでべでべずっぴょんと唐突にこの雑文を終えるのであった。ということでうんばばー。


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