其の97 拘泥


 拘泥というものは厄介な代物であって、それがあった為に色々な幸せをスルーして来たのではないか、そう考えることがある。例えばギターの演奏についてであるが、かつてわたしはリードギター原理主義者でありリズムギターなんてのは速く弾けない愚図がやるもんだと固く信じていたが為、今でもストロークが非常に下手であり、そしてコードチェンジが下手である。もしもあの頃基本にそってコードを覚え、しょうもないソロばかり練習していなければ、今頃美しい女性の誕生日に「君にこの曲を捧げるよ」なんて田村正和のように後ろ髪を触りながら「君がいてくれるだけでばあばああ」だの「素敵な夜にいいいいいい」だの「だばだばああああ」だの「げぼげぼおお」だのと熱唱、もう隣に座る女性の目はうるうる、その後彼女と手を繋ぎながら朝を迎えることを百億回くらいこなしているはずなのだ。悔しい。
 そんな後悔の念があるのかないのか解らないが、ここ五六年、何事にも拘わらずに欲望のまま生きてゆこうと努めてきたのだが、それでも元来小心者のわたしであるからやはり些細なことで拘わってしまうのである。それはぷりくらである。あのやけに小さなシールになっているぷりくらという奴である。告白するがこれまでわたしはぷりくらなどというものを心底馬鹿にしていた。二十歳前の若者ならいざ知らずいい年した男がぷりくらなどという軽薄なものに手を染めるなんてちょっとどうかしている、そうも思っていた。もし免許証の写真には必ずぷりくらを使用すべしなどという法律が出来たなら、ぷりくらを刺して俺も死ぬ、そうとまで考えていたのである。だからこれまで一生わたしはぷりくらに手を汚すまいと半ば強迫観念のように考えていたのである。
 それも昨日までであった。正確には昨日の夕方までであった。いつもの休日と同じようにぷらぷらと街を歩いていたのだが、そこで女性に声を掛けられたのである。一瞬「逆ナンパシリーズ、AV女優としてみませんか」という芸術映画のタイトルが浮かんだのだが、勿論そんな芸術映画の設定などとは関係あろうはずもなく、それは献血してくれませんかということであった。元々顔色が悪く、どちらかというと輸血してもらう方が似合っているわたしであるから、積極的に献血をしたいと思う方ではない。だからといってこれまで一度も献血をしたことがないわけではなく、学生時分ニ三度だけ献血をしたことがある。それはそのときまったく金がなく、そして非常に喉が渇いていたという理由によるものである。献血の後で貰えるジュースを目当てでしたのであった。しかし今は違う。財布の中にはジュースを二本でも三本でも買うくらいの金はあるのである。深呼吸して気合いを入れれば一ダースでも二ダースでも買えるのである。学生のときのわたしからすれば「お大尽」と呼ばれても差し支えないくらいの小銭が詰まった財布を持っているのである。だからその女性には悪いが通り過ぎようとした。しかしそのときである。
「今なら献血後、ぷりくらを撮れるんですよお」
 体がびくっと反応した。何だと、献血の後にぷりくらだとお。それは何か。献血で若干貧血気味になったわたしをそのまま抹殺しようとでもいうのか。それとも献血の後わたしを怒らせて血の気を増やす作戦か。わたしは怒りに震えながら、何ならその女性を殴ってしまいかねない衝動をおさえながら、彼女に言った。
「あの、それあなたと一緒に撮ってくれるんですか」
 怒りに任せて発した言葉には真実が含まれているものなのか。これまで一度たりとも考えたことすらなかった言葉がすっと出てしまった。考えてみればこれまでにもこういうことがあった。かつてわたしは今のぷりくら同様にカラオケというものを嫌っていた。人前で歌うなどということはプロのミュージシャンがすることであると固く信じていたし、素人が歌うのはプロのボーカリストになれない不満を適度に紛らす補償行為であって大衆のガス抜きに過ぎないのだ、などとガチガチの融通のきかない、娯楽なんてものの存在を無視した考えをしていた。そしてカラオケは、酔っ払ったオヤジが「うぃー、次の曲はね、への六番ねえ」なんて言いながらすることだと信じていたからである。この信念はわたしのお気に入りの女の子の「ねえ、カラオケ行こ」という言葉で一瞬にして崩れさって、今やカラオケに行けばもうノリノリである。
「はい、いいですよ。献血してくれますか?」
 その言葉を信じてのこのこと献血カーに入っていった。しかしわたしにも意地があるのか、己に正直になれぬのか解らないが、献血カーに入ってからも、俺はぷりくりたいわけではないのだ、俺が献血をすることによって助かる命があるのだ、そして巡り巡ってその血はわたしにかえってくるのだ、情けは人の為ならずというではないか、これは俺が俺である為に献血するのだ、などと尾崎豊の歌詞にありそうなことを考えながら腕から血が流れてゆく様を眺めていた。
 献血が終わり、約束通りその女性はわたしと一緒にぷりくらを撮ってくれた。帰りしな手渡されたシートを見ながらにやにやしている自分に気づいて、いやいや俺はぷりくらを撮りたかったのではなくて純粋に献血をしたかったのである、世の為人の為になることをしたかっただけなのだと無理に思い込もうとしたが最早手遅れである。シートを見ては、なかなか良く撮れているぢゃないか、などと考えてしまうのであった。これが大人になったということなのであろうか。それとも人として何か大切なものを失った瞬間なのであろうか。
 しかし献血とぷりくらのセットというのはどうも変である。ジュースだったら献血で失われた水分を補給する為だとかそれなりの意味が解るのだが、献血とぷりくらというのは如何なるところからの発想かよく解らないのである。しかしかつてこれと同じようなことを何度も経験したような気もするな。好きでもないものを抱き合わせにして己の欲望を護魔化すという、そうそうこれって硬い本の間にエッチな本を挟んで買うのと同じ発想なのである。因みにわたしの本棚にある哲学関係の本は大体これである。「善悪の彼岸」とか「水入らず」とか「ソクラテスの弁明」とか。弁明してるのは自分だって。


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