其の96 苦沙弥先生


 さて、くしゃみである。告白してしまうが、わたしはくしゃみが大好きだ。あの爽快感が好きだ。くしゅん、くしゃん、くしょん、はっくしょん、ばっくしょい、どれもこれも愛しているとさえ言ってもよい。わたしの愛は有明海よりも深く、茶臼山よりも高い。であるからくしゃみであれば、いつなんどき現われようとも愛する自信がある。世間では忌み嫌われている風邪をひいたときのくしゃみでさえも愛人くらいにしてもよい、そう考えている程である。結婚もしていないのにである。ハクション二号、名前だってつけてしまうのである。それでもわたしも人の子であるから当然好みもあって、突然前触れなく現われるくしゃみや、骨まで震える程大きなくしゃみなどはお気に入りなのであるが、しかし鼻がむずむずと前触れのあるくしゃみの魅力にはどうにも抗えものがあるのだ。
 彼女は気まぐれだ。彼女の愛撫を楽しむかのようにそのむずむず感に身を委ねていると突然機嫌が悪くなってエクスタシーを前に立ち去ってしまうことがある。ヘイ、セニョリータ、おいら何か怒られるようなことをしてしまったかい、セニョリータ、てな気持ちである。だからといって焦りは禁物だ。むずむず感即ハクション、これでは彼女も満足はしまい。そして何よりわたしが満足しない。やはり愛する彼女とは出来るだけ同じときを過したいものである。早くても駄目、遅すぎると彼女は消えてしまう。この見極めが大切である。彼女を手に入れるにはかなりの技術が必要なのである。
 ということで現在わたしの最もよく使う手は「太陽に鼻の穴を向ける」である。鼻がむずむずしてくるとタイミングを見計らって太陽に鼻の穴を向けるのである。太陽の光は適度に鼻の穴を刺戟し、そして心地好いくしゃみへといざなうのである。また近場に太陽がないときは蛍光燈などの電燈でもよい。太陽に比べると若干爽快感は落ちるがそれでもまずまずの満足感は味わえるのである。
 などと如何にくしゃみ道が深いかということを件の霊感少女に話していたのであるが、彼女も負けず嫌いである。
「じゃあ、しゃっくりは?」
「うむ、しゃっくりか。しゃっくりはな横隔膜の痙攣であるから、大きく息を吸い込むなり、息を止めるなり、水を飲むなりだな……」
「全然駄目」
「駄目か」
「もう凄く駄目」
「凄く駄目か。じゃあどうするのだ。しゃっくりを止めるには」
「なすびの色は」
「なんだそれは」
「いいから答えてみて」
「むらさきだろ。で、それがどうしたというのだ」
「はい、これでしゃっくりが止まるの」
「ゑゑゑ、どういうことなんだよ。なすびの色を答えればしゃっくりが止まるのか」
「そうだよ」
「それでは横隔膜の痙攣とかそういうのはまったく関係ないのか」
「それは知らないけど、止まるの、しゃっくり」
 一体どういうことなんだ。最近はそうなのか。しゃっくりを止めるのになすびの色を答えればいいのか、最近の若者の間では。まったく訳が解らん。それだったら、しゃっくり、悪魔の所為、だから、喉、切って、血、出す、これが掟、などと言われる方が何だか説得力があるようにも思える。
「それ今思いついた嘘ぢゃないのか」
「違うって、笹本さんに聞いてみたらほんとだって解るから。この間それで止まったんだもん」
「本当かあ、嘘臭いなあ。しかし何でなすびの色なんだよ」
「さあ、それは知らないけれど、なすびの色を答えれば止まるの」
「それはあれか、秋茄子は嫁に喰わすなということと関係はあるのか」
「さあ」
 日本はお箸の国であるとともに言霊の国である。言葉には何らかの力が働く。たしかに言葉には力があって、その言葉を発すれば共通の文化圏に住む人々にとっては確実にある種の力を持つのである。忌み言葉やおまじないというのも、それを信ずる人の間では実際の効力を持つというのはアフリカの呪術などの例からも解る。しかしなあ。なすびっていうのはなあ。煮ても焼いても美味いし。いやこれは関係ないか。
「じゃあさ、くしゃみを気持ち良くするにはどうしたらいいのだ。太陽に向かって鼻の穴を向けるってのが良いと思うのだが」
「それ駄目」
「やっぱり駄目か。じゃあどうするんだ。もしかして大根の色を聞いたりするんのではないだろうな」
「凄い、それ正解」
「それはいつでもどこでもくしゃみをすることが出来るのか」
「当然」
「本当だな。もし今くしゃみ出なかったらグーで殴るからな」
「いいよ、じゃあ言うね、大根の色は」
「し、しろ!…………ほら、やっぱり出ないではないか、くしゃみ」
「それねえ、白と緑って答えないと出ないんだよ、ははは」
 くそう、そういう手でくるか。いい年して小娘に揶揄われて非常に悔しかったのであるが、ついでにもう一つ彼女に教えてもらったこの手のおまじないがあって、それは答えるだけでダイエットが出来るという優れものである。まず痩せたいと思っている女性と向かい合う。そしてこう言えば言いそうである。
「乳頭の色は」
 ピンクと答えないとその女性は痩せることが出来ないということである。このおまじない、あなたの周りにいる女性に教えてあげてはどうだろうか。  最早オヤジであるな。   


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