其の99 指摘されざる者


 人間には大きく分けて二つのタイプがあるといえよう。一つは何かを指摘する人間、そしてもう一つは何かを指摘される人間である。指摘される人間というのは、何から何まで指摘されるものであって、それは靴下が裏表反対であるなり、寝癖がついているなり、食生活が貧弱であるなり、眼鏡のフレームが曲がっているなり、鼻毛が出ているなり、眠そうなり、それはもう指摘されつづけるのである。反対の指摘する人間は指摘する人間で、日常生活いつ何時であっても指摘するものである。コーヒーの飲み方は変ではないか、煙草を喫い過ぎではないか、メロンにハムは何の意味があるのか、など取るに足らない細かなことまで指摘するのである。かくいうわたしは指摘される方に属する。朝から晩まで指摘されつづけていると言っても言い過ぎではない。まず朝起きると取り敢えず遅刻しそうだぞと犬に指摘される。「わんわん」と吠えるから何事かと思って起きると案の定仕事に間に合うぎりぎりの時間である。犬の方がしっかりしているのである。そして仕事場に行く為車に乗り込もうとする。するとフロントガラスに「ここは駐車禁止の区域です」と貼り紙で指摘されるのである。マンションの管理組合の貼り紙だから法的にちょっとどうかとも思うのだが糊でべっとりとひっつけられているのである。慌てて貼り紙を剥がし車を発進させる。そして仕事場に到着する。すると上司より遅刻の言い訳における論理的矛盾を指摘される。
「ちがうんす。今日はですね、病院に行ってたらですね、自分の車の前に救急車が止まって出せなかったんすよ」
「しかしこの間は病院は水曜日しか担当の医者がいないって言ってたではないか」
 くそ、何故覚えているんだ。自分でも忘れているくらいなのに。そして仕事が始まると周りを徘徊する中学生に指摘されるのである。
「今日、急いで家を出たでしょ」
「なに、どうして解るのだ。貴様は超能力者か、それともストーカーか、それとも犬か」
「だって髭伸びてるし」
 髭くらい伸びてたっていいだろうに。そして更に指摘される。
「靴下左右色違いだし」
 そういう仕様なのだと言うほかないだろう。ほんと一日中指摘されているのである。
 指摘される人間というは指摘されたくてそういう行動をしているわけではない。できれば指摘されないで済めばどれ程良いかとも思うものである。一方指摘する人間の方はどうだろうか。そういう指摘をしなければ貯金でも減るのだろうか。それとも罰ゲームか何かなのか。しかし彼ら指摘する人間はそういった理由もなく指摘するのである。こちらには何の落ち度もないのに気づけば色々と指摘されている。指摘される側の人間からすれば指摘する人間には少なからず悪意を持っているとしか考えられないではないか。この両者の関係は苛めの構図と似ている。指摘する人間は圧倒的に強者であり、そして指摘される人間は弱者である。正に弱いもの苛めである。苛めはいかん。苛めたらあかん。指摘するのをやめろとは言わん。やはり指摘するには指摘するだけの理由があるのだろう。それでも弱者たる指摘され人間にとっては指摘される瞬間というのは非常に辛いときなのである。そこで、この指摘する人間と指摘される人間との間にある苛め問題を解消する方法を考えようと思う。
 率直に相手に指摘するのはやはり相手が傷ついてしまうものである。また周りの目もある。衆人環境で指摘されるとわたしのように羞恥心というものをなくしてしまったものでない限り指摘された途端道頓堀に飛び込んでしまう見目麗しき女性がいないとも限らない。そこで周りには解らないがその人には解る暗号のような言葉が必要である。譬えば、美しい女性がベンチに座っている。しかしその女性は読書に耽っている為、少し足が開き気味である。もう少しである。あと少しで見える。頑張れ。そのとき「見えそうですよ」。これではいけない。これでは彼女が股を開きそうだったのが丸解りである。もし彼女がシャイな指摘され人間ならばそのまま近くの海に入水するかもしれない。そこで指摘する人間はそのときこう言うのである。
「ちょっとナブラチロワですよ」
 彼女の脳裏にあのナブラチロワの勇姿が映る。ナブラチロワのテニスは大胆だ。女子テニスだということを忘れるくらい激しい。あ、今のわたしナブラチロワなんだわ。さっと股を閉じ、危険は回避される。そして周りの人間にはナブラチロワなる言葉の意味が解らないので彼女の自尊心も満たされるのである。何ならその指摘する人間に感謝して結婚してくれるかもしれない。これで指摘する人間と指摘される人間との間の苛め問題も緩和されるというものである。
 またこんな場合にも有効である。車に乗ってびゅううびゃあなどととばしていると、いきなりボールを追いかける子供が飛び出してくる。危ない。このままではボールと子供を轢いてしまう。しかしドライバーは気づいていない。そのとき「危ない、轢いてしまうぞ」。これではいけない。ドライバーがもし津軽出身の指摘され人間ならばそのまま車から飛び降りて近くの玉川上水に入水してしまうかもしれない。そこで指摘する人間はこう言うのである。
「ちょっとジェームス・ディーーーン」
 これでドライバーは今交通事故を起こしそうであることも解るし何よりジェームス・ディーンに譬えられたことにちょっと照れ笑いさえ浮かべることであろう。そして心置きなくボールと子供を轢くことが出来るのである。しかしそのドライバーが女性であったが為に「ちょっとジェームス・ディーンみたいな女の子ーー」と叫ぶと余計に羞恥心が増すので注意しておかなければならない。
 またダコタアパートから出るといきなりピストルを持った男が現われる。しかし当の本人は気づかない。このままでは撃たれる。「危ない、撃たれるぞ」。これではいけない。照れ屋さんの指摘され人間ならば走ってそのまま首をつってしまうかもしれない。そこで指摘する人間はこう言うのである。
「ちょっとジョン・レノーン」
 これで指摘され人間は自分が暗殺されかかっていることに気づくし、何より自尊心が満たされるというものである。
 また思わず背が足りなかったら「ちょっとマイケル・J・フォックス」。
 ふと気づくと再婚ばかりしてしまっている人には「ちょっとエリザベス・テイラー」もしくは「ちょっと京唄子」。
 つい溺れそうになっている人には「ちょっとたこ八郎」。
 思わず耳を切ってしまいそうな人には「ちょっとひまわりさーーん」。
 このように指摘する人間が非常に婉曲的な表現でももって指摘すれば、二つの人種の間に平和が訪れるのではなかろうか。
 そして過去に書いた雑文の主張と正反対のことを書いた雑文書きの人には「その雑文、ちょっと武者小路」。これで恥ずかしがり屋でかつ小心者でかつ照れ屋さんの指摘され人間は思わず淀川に入水することもないと思われる。


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