其の130 風邪とインフルエンザとわたし


 我が家の『家庭の怪我病気全ての対処法(第十一刷)』を調べてみたところ俗に言う風邪というのは「感冒」というのがより正式らしく、他にも広辞苑を調べてみるとなるほど「風邪」という項目は「風」の(5)を見ろとあって、そこには「感冒」とある。そこで「感冒」というのを調べてみるとやっといわゆる「風邪」の症状らしきものがあり、そこに至って『家庭の怪我病気全ての対処法(第十一刷)』における「感冒」という病の症状とほぼ一致する。この『家庭の怪我病気全ての対処法(第十一刷)』は非常に便利で病名からその対処方法を調べることもできる上、逆に症状からその病気の可能性を探ることもできるようになっている。たとえば「腹が痛む」という症状を見てみると「腸チフス」「虫垂炎」「下痢」「食中毒」「腸捻転」といった風に「腹が痛む」ことがあればありとあらゆる病気の可能性があることがわかり非常に心を躍らせる仕組みになっている。「少し吐き気がするなあ」と思ってこの『家庭の怪我病気全ての対処法(第十一刷)』を紐解くと「もしかすると俺はコレラかもしれないぞ」とその大仰さに先程カレーを喰い過ぎたことを忘れさせてくれるのである。このように楽しめる書物であるから版を重ねているかと思えば著者の坂口大蔵氏の遺言によって十一刷を最後に以降は増刷していないとのこと。だから我が家の『家庭の怪我病気全ての対処法(第十一刷)』は非常に貴重なものであり、おそらくこれからも我が家の守り神として利用されることであろう。
 一般に風邪という病の症状は咳、喉の痛み、くしゃみ、鼻水、寒気そして発熱と様々なバリエーションがあり、そのどれかを発するだけでいわゆる「風邪」と呼ばれる資格が生じる。そのため「医者にはかかっていないがどうも体調が悪い」ときの病名として人々に利用されることが多く、主に職場や学校といったところへの欠勤欠席の理由として使用されることも多い。また受ける側は受ける側で相手が風邪で休むという旨を伝えると「そうですか、お大事に」とすんなり受諾し「風邪に罹った」人は悠々と休むことが出来る。こういうこともあって多くの人は欠勤の理由として「風邪」を採用するのであるが、しかしここで考えなければならないのは「風邪」=「感冒」というのが欠勤の理由となるのは伝達手段が声のみを媒介にした電話によるものであるという点である。「風邪」というものも病の一種であるのだから当然健康状態より非健康状態へ移行する瞬間というものが存在するわけで、これは後天性免疫不全症候群や結核やコレラなどと同様である。この瞬間が職場の人間に見られていない場所において通過するのは確率的には高く、それゆえ先のように電話を使って風邪の症状を訴え欠勤するということになるのであるが、だからといってその瞬間を職場にて遭遇することもないというわけではなく、勤務時間が長ければ長いほど職場で「感冒」の状態へと身体が移行する瞬間に遭遇する確率も高くなってくる。つまり「感冒」は場所を選ばないのである。しかし場所は異なれど同じ「感冒」であるはずなのだが、その対応は歴然と異なる。電話で感冒の症状を訴えるとすんなり認める者が目の前で感冒に罹ると途端に残虐性を帯びるのである。
 まずその理由を問う。好奇心からか原因を追求するのである。何らかの行為によって生ずる病であれば答え易いのであるが感冒というのはあらゆる要素が複雑に絡み合ってその症状を顕すのだから非常に答えにくい。そこで原因がわからない旨を伝えるのだが、しかしそれでも追求者はその手を緩めることはない。原因がはっきりしないと今度は生活全般について如何にセルフコントロールが出来ていないかということを責め上げる。睡眠はしっかりとっているか、うがいはしているか、食事での栄養のバランスを考えているかなど日々の生活全般の不摂生を訴え、揚げ句「風邪をひかないのも仕事のうち」だと断定し、職場で感冒に罹った者の立場をいつもにもまして狭くさせる。そして最後に渋々そして忌ま忌ましげにそして呪いでもかけるが如く帰宅を促すのである。これが一般に職場において風邪に罹った者に対する周りの者の対応である。
 まったく同じ環境、生活習慣に置かれたとしてもそこで感冒に罹る者と罹らない者とにわかれるのだから、これは偶然の為せる業であって当人に責任がないのは論理的に正しいはずである。それでも感冒に罹った者への風当たりは厳しい。特に目の前の感冒に対しては厳しいのである。
 この身の置き場がない「職場での感冒」であるが、しかし一つだけ抜け道があって、それは「うつされた」という事実を強調することである。つまり「感冒」を「インフルエンザ」であると主張することである。この「感冒」と「インフルエンザ」は熟語と片仮名という風に一見まったく別の病のようであるが「インフルエンザ」は「流行性感冒」というくらいで同じ「感冒」の仲間である。正確には身体を寒気にさらし呼吸器系の炎症によって生ずる「感冒」とインフルエンザウィルスが伝染することによって生ずる「流行性感冒」とはその原因が異なり、そして症状の激しさにおいて差がある点などが異なるのであるからまったく同じ仲間ではないのだが、しかしその症状は咳、くしゃみ、鼻水、寒気、頭痛、発熱といった風にほぼ同じであり、素人には区別がつきにくい。医者にどちらかを決定してもらう他にこの両者を区別する方法はない。しかしこの医者とてウィルスをそれぞれの病人から採取した結果「インフルエンザ」か「感冒」かを決定づけているのではなく、それはだいたいにおいて時期や患者の数や患者の雰囲気そして患者の求めている病名を察することによってどちらか決めている節があって、つまり医者にも一人一人「インフルエンザ」か「感冒」かを明確に区別できているわけではないのである。ということは「感冒」か「インフルエンザ」かは罹っている当人の裁量に任されているといってもよいわけである。ならば職場においてより同情してもらえる「インフルエンザ」にしておくのが生活の智慧というものだが、ところが一つ問題があっていくら当人が職場で今「インフルエンザ」に罹ったと主張しても、自分が感染経路である疑惑をもたれることに露骨に嫌悪感を示す者が多く、その主張を誰も認めないという事態に陥ってしまうのである。そして大概の者は医者はしっかりと診断してくれるという信仰をもっているものだから、病院へも行かないで突然インフルエンザだと言われてもね、と「インフルエンザに今罹った」と主張する者に冷笑を浴びせ、そしてそれはただの「感冒」だとその者の不摂生に責があると責めたてるのである。結局職場で「風邪」にかかったとしてもそれが「感冒」であれ「インフルエンザ」であれ禍々しいものを見るかのようにそして唾を吐きかけられるが如くそして首を掴まれ職場から放り出されるようにそして泥棒猫を家から放り出すが如く帰宅を促されるのである。
 ところが目の前に患者がいるという状況ではない場合、「感冒」に罹ったと言うのと「インフルエンザ」に罹ったと言うのとではその症状に違いは殆どないにもかかわらずより「インフルエンザ」に同情が集まるという事実がある。これは症状が「インフルエンザ」の方が重いというのが理由ではない。たとえばもっとも重い症状の「感冒」ともっとも軽い症状の「インフルエンザ」とではどちらが身体に負担がかかるかは両方を同時に体験している患者に意見を聞く以外に方法がないことから解答不能の命題とされていて、つまりは軽々しく「インフルエンザ」の方が症状が重いと言えないのが医学界での定説となっている。それでは何故これほどまで「インフルエンザ」が皆に好意的かというと、それは病名が片仮名であるからという意見が現在のところ有力である。片仮名の入った病名程、難しい漢字を含む病名程同情が集まるという法則が病気界にはあって、「チフス」「髄膜炎」「ペスト」「ハンセン氏病」「バセドー氏病」「ジフテリア」「脳髄爆裂症」「ネフローゼ」「陰金」「エイズ」と枚挙に暇がない。大衆というのはこれらの病名のインパクトに圧倒される為に症状や原因を見落としてしまう面があり、ついつい理解していない癖に同情してしまうのである。たとえば「バセドー氏病」というのは治療法は確立されている癖に原因はよく解っていないところがあって医者の間では「情熱的な人が罹る病」だと非科学的な態度で「バセドー氏病」の患者に嘲笑を伴った接し方をしていることなど一般には知られていない。このように病気に対して無理解な人が殆どである為これほどまで「インフルエンザ」は皆に愛されているといってもよいのである。逆にいうと病名が片仮名ではない「感冒」はその症状の割に不当な扱いを受けているといってもよい。
 そこで「感冒」を「クヮンボー」と呼ぶことを提唱したい。また「風邪」を「クヮジー」と呼ぶことも提唱したい。「クヮンボー」はランボーに似て荒々しい響きを持っているし、「クヮジー」はフィジーに似て南洋系の洒落た響きを持っている。より「クヮンボー」「クヮジー」は皆に愛され同情を得る病となることであろう。すると先日の日曜日の九時三十四分、「クヮジー」を上司に訴えたわたしのように不当に生活の不摂生を責められた揚げ句ぼろ雑巾のように暴言を吐かれつつ帰宅を促されるようなことも今後起こらないのではないだろうか。
 さきほどもう一度『家庭の怪我病気全ての対処法(第十一刷)』で「感冒」「風邪」を調べてみたところ、「感冒(クワンボウ)」「風邪(クワゼ)」とルビが振ってあり坂本大蔵氏もわたしのように「かんぼう」「かぜ」と呼ぶことに抵抗があるように思え、やっと時代が坂本大蔵氏に追いつきつつあるのだと何やら感慨深い。没後七十八年を過ぎた今、わたしという賛同者が増えたことをあの世で喜んでおられるか気になるところである。


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