其の152 モテモテの人


 人として生まれてきたからには一生に一度くらいはモテモテというのを味わってみたい。
 モテモテをである。それはもうモテモテなのである。超モテモテなのである。中くらいの速さでいうとモテモーテである。スタッカートでいうとモッテモッテである。三連符でいうとモテテ・モテテ・モテテである。ダカーポでいうと野に咲く花のようにモテモテである。いいかげんやめにしておくが、つまるところもてるようになりたいわけである。わたしがここでわざわざもてたいという発言をするということは論理的に考えるとそれはわたしがもてないことを意味する。そして単純に考えてももてないということを意味する。そして深く考えると自殺したくなってくる。そういう身の上であるからもててみたいと思うのは人として当然の気持であろう。それに少し考えてみると、もてない状態よりももてる状態の方が多くの利点があるのがわかる。
  人から好かれやすい。
  嫌う人間が今よりも少なくなる。
  もしかすると現在の支出の一部(カレー、カール、CD、カレー等)を負担してくれるかもしれない。
  後ろから蹴られる確率が今よりも減る。
  振られにくい。
  わたしに対する言葉遣いがやわらかくなる。
  今よりも存在を無視されない。
  今よりも人として扱ってもらえる。
  高いところの物を取るとき以外でも必要とされる。
 少し挙げるだけでこれだけの利点があるのである。これはもうモテモテになるしかないではないか。もちろんわたしは冷静である。「いくら頑張っても生まれにおいても育ちおいても容姿においてもモテモテになる要素などないからそんなのは絵に描いた餅だ。この駄目人間!」というわたしを憎む悪魔のような足の臭い耳垢がかなり溜まったその実人を見極める能力に長けた人の発言だって予想している。しかしじっくり論理的につきつめて考えてみれば活路は開けてくるはずだ。人間は考える葦というパスカルの言葉もある。我思うゆえに我ありというデカルトの言葉もある。わたしが切りましたというワシントンの言葉もある。そしてジョセフィーヌ今夜は勘弁してくれというナポレオンの言葉だってある。こういった先人たちの勇気溢れる言葉を胸に考えてゆきたいと思う。
 論理的な思考によって現状を変えるべくモテモテへの道を考察してみたい。
 まず実際にもてるようになるかどうか、このこと自体は次のような推論によって簡単に証明できる。
  モテモテさんは生物だ。
  わたしだって生物だ。
  ゆえにわたしもモテモテだ。
 見事な推論である。これで今日からわたしだってモテモテである。しかし、
  もてない人は生物だ。
  悲しいことにわたしも生物だ。
  ゆえにやっぱりもてない。
 このようにも推論できることもあるが、しかし冒頭の「もてない人」という言葉自体に「生物」という意味合いを含んでいる為命題自体かなりあやしい。よって「やっぱりもてない」という結論は意味がないはずである。ついでにここでいう「モテモテさん」は人間とは限ってはいない。怪獣モテモテかもしれない。
 そしてこういう論理的思考も考えてはいけない。
  任意の瞬間わたしはもてていない。
  その次の瞬間もわたしはもてていない。
  ゆえに数学的帰納法によりわたしは永遠にもてない。
 このような悪魔のような考えはいけない。そしてこの推論には誤りがある。任意の瞬間というのが偶然木村拓哉に間違われてしまった瞬間である可能性もないとはいえないからである。すると、
  任意の瞬間わたしは木村拓哉と間違われてもてているような錯覚に陥っている。
  その次の瞬間もわたしは木村拓哉と間違われてもてているような錯覚に陥っている。
  ゆえに数学的帰納法によりわたしは永遠に木村拓哉と間違われてもてているような錯覚に陥っている。
 ということになるが、本人は幸せであるからそれはそれで良いのかもしれない。
 また別の考え方もある。わたしはこれまで生きてきた二十九年間一度たりとももてたことはないが、まわりを見渡せばどう考えてももてるはずのないような男がモテモテの状態になっていることがある。直立歩行をしている、道具を使う、火を使う、言葉を話す、時にはカレーを喰う、このようにほぼわたしと同じ条件であるにもかかわらずその人間はわたしとは違ってモテモテだ。このことから考えられるのは、もてる状態というのは当人の特性によるものではなく、単にその社会における認知のされ方ではないかということである。そして社会の変化によってある人間の一生のうちもてる状態ともてない状態とがオンとオフのように交互にくり返されている可能性だってあるのである。このことが正しければ時代が変わればわたしだってもてるようになるはずだ。
 そしてこの状態を神様が規則的に変化させているとするとこのようなことも考えられる。
  誕生から二十九歳    もてない。
  二十九歳から五十八歳  モテモテ。
  五十八歳から八十七歳  もてない。
  八十七歳から百十六歳  モテモテ。
 五十代後半再び現在のような苦難の道が待ってはいるが取り敢えず三十代四十代をモテモテさんとして生きていけるのは幸運である。そして九十歳を越えてモテモテになるというのも生きているだけで幸せなのにモテモテだなんて心臓麻痺で死んでしまいかねないくらい幸運なことである。しかしこのサイクルはわたしの都合で二十九年周期にしたが、実際は違っているかもしれない。
  誕生から十八億九千万歳        もてない。
  十八億九千万歳から三十七億八千万歳  モテモテ。
  三十七億八千万歳から五十六億七千万歳 もてない。
  五十六億七千万以降          弥勒菩薩。
 ここまで生きていけるが心配であるし、もし仮に十八億九千万年もてないままだとすればもはやどうでも良い境地になっているかもしれない。
 実は反対にこのサイクルがかなり短いことも考えられる。
  誕生から五ナノセカンド       モテモテ。
  五ナノセカンドから十ナノセカンド  もてない。
  十ナノセカンドから十五ナノセカンド モテモテ。
 このようにかなり短い周期でモテモテ状態ともてない状態とを繰り返している可能性も考えられる。これではモテモテ状態に気づかないばかりか、異性がわたしに近づく前にわたしはもてない状態に変わってしまうではないか。コンピュータのCPUのような処理の仕方であるが、神様のことだからこれくらいの処理をわたしに施しているのかもしれない。
 また規則的に状態が変化するのでもこのようなものかもしれない。
  誕生から二十九歳まで                 もてない。
  二十九歳から二十九歳五ナノセカンドまで        モテモテ。
  二十九歳五ナノセカンドから五十八歳五ナノセカンドまで もてない。
  五十八歳五ナノセカンドから五十八歳十ナノセカンドまで モテモテ。
 これはこれでしっかりとした規則性をもっているが、流石に五ナノセカンドではモテモテ状態を堪能できないではないか。神様は意地悪である。
 このように色々ともてないわたしがもてるようになるかどうかについて考察してきたが、どうも旗色が悪い感じがする。もしかするとこんなことを考えてしまうことがわたしをもてなくさせているのかもしれない。しかし、こんなわたしであってもこれだけは確実に言える。
  もてる人は生きている。
  もてない人は生きている。
  ゆえにわたしも生きているはずだ。
 わたしのような人間はどちらの状態であっても取り敢えずは生きているということだけで幸せであると思わなければならないのかもしれない。


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