其の153 箪笥をかつぐ人


 ちょっとした知識というものは積極的に得ようと思っていないのに我々の元へ忍び寄ってくる。
「演歌歌手の大川栄作は箪笥をかつぐのが得意」
 わたしがこの事実らしきものを知ったのはいつの頃だろうか定かではないし、誰からもたらされた知識なのかも定かではない。しかしいつの頃からかわたしの中で演歌歌手大川栄作は箪笥をかつぐのが得意な歌手ということになってしまっている。しかも大川栄作についてちっとも興味をもっていないわたしは大川栄作のことを更にこう認識してしまっている。
「大川栄作は箪笥かつぎ」
 「箪笥かつぎ」とはいかなる言葉なのだ。何かの職業なのか「箪笥かつぎ」って。単に大川栄作が力持ちというのであれば「大川栄作は力持ち」これで充分である。わざわざ箪笥を持ち出す必要などちっともないはずなのである。しかしわたしにもたらされた大川栄作に関する知識はこうだ。
「大川栄作は箪笥かつぎ」
 もはや大川栄作が何の人だかわからなくなってしまっている。
 気になったのでちょっと大川栄作について検索エンジンで調べてみた。すると「大川栄作は箪笥かつぎ」という言葉の意味がそこには載せられていた。
「大川総桐たんす、大川ランマ彫刻など木工の街として室町時代から約四百六十年の歴史を持っており、熟練した匠の技、伝統技術が現代に受け継がれています」
 そうなのである。大川栄作はこの大川市の出身者なのであった。つまり箪笥で有名な町の出身者であるから大川栄作は箪笥をかつぐのである。ただ大川市出身であるということだけで大川栄作は箪笥をかつぐのである。ただただ無心に箪笥をかつぐ。そこにわたしの「大川栄作は箪笥かつぎ」という認識の根源があったのである。
 これはある一つの事実を示している。それは大川栄作についての知識が一つ増えてしまったという事実である。大川栄作について一歩深く認識してしまったことである。
 だからどうだっていうのだ。大川栄作が何故箪笥をかつぐのか、この理由がわかったところでわたしの人生には何の影響もないではないか。それでも既にわたしは大川栄作に関する造詣が深くなってしまった。それは何の意味もない知識である。それなのにわたしはこれからの人生大川栄作にぶちあたるたび、「大川栄作が箪笥をかつぐのはその出身地が箪笥作りで有名な町だからだ」と考えてしまうのである。その都度わたしはそんなことを知ってしまっている自分に何だかいやな気持になるのかもしれない。
 またこういう知識もある。
「インディアンのある部族には三より大きな数を表す言葉がない」
 どこでこのことを知ったのかは定かではないし、またこのことが事実なのかどうかもわからない。それでもわたしは「あるインディアンの部族」といわれると、
「まさかそいつは三より大きな数字を表す言葉をもっていない部族じゃないだろうな」
 このように考えてしまうのである。
 そして更に「では三より大きな数を表さなければならない状況に陥ればどうしているのだ」という問いに対する解答も知ってしまっている。
「いくらかの髪の毛を握って体を浮かせるように少しだけ持ち上げる」
 彼らは「いち、にー」と数えたあと、おもむろに髪の毛を手で握り体を浮かせるように持ち上げるのである。
 そして更に「では三と四を区別する方法はないのか」という問いに対する解答も用意されている。
「三のときよりも多くの髪の毛を握る」
 彼らは握った髪の毛の量で数の多寡を表すのである。
 また更に「では三とか四などという数字よりかなり大きな百だとか千だとかいう数はどのように表現するのだ」という問いに対する解答も悲しいことに持ち合わせてしまっているのである。
「髪の毛を握ったままジャンプしまくる」
 これがインディアンのある部族の数に関するわたしの知識である。これが事実かどうかはわからないし、また事実かどうか調べる気もない。この知識が誤りで、実際のインディアンはそういう三より大きな数のない生活などしていないということがわかってもおそらくわたしは「どこかにそういうインディアンの部族がいるのかもしれない」と考えてしまうに違いないのである。
 これは次の事実を示している。
「まったく関係のない知識ならばおもしろい方がよい」
 そうである。まったく関係のない知識ならばおもしろい方がよいのである。髪の毛をつかんでジャンプしまくるインディアンの部族、そう考えるだけで地球の広さや人間の多様さを味わえるではないか。
 彼らインディアンにも日常がある。
「今日の夕食はカツカレーですよ」
「ほんとお、僕の大好きなカツカレーなの? ほんとに?」
「インディアン嘘つかない」
「やったあ、今日はカツカレーだあ。うっれしいな。今日は食べて食べて食べまくるぞお」
「まあこの子ったら」
「でさあ、カツカレーのカツは何個入れてくれるの?」
「ええと、一つですよ」
「えええ! もっと入れてよお」
「しょうがないわねえ、母さんの分も入れてあげるから。二つでいいでしょ」
「やだいやだい、せめて……」
 そうしてインディアンの子供は髪の毛をつかんでジャンプしまくるのである。
「ぜいぜい、これだけ入れてくれなきゃいや!」
「もう、わかったわよ、仕方ないから……」
 母親も髪の毛をつかんでジャンプしまくる。しかし子供のつかんだ髪の毛よりもやや少ない。
「はあはあぜいぜい、これで我慢しなさいよ」
「ちぇえ、仕方ないなあ、これで……」
 また子供は髪の毛をつかんでジャンプしまくる。
「ぜいぜい、これで我慢するかあ、ぜいぜい」
 また髪の毛のことなものだから、男性は年をとってくるとちょっと困ったことになるのである。三より大きな数を表せなくなるのである。
「そうじゃのう、昔はバッファローがたくさんやってきてのお」
「ふうん、おじいちゃんが若い頃はいたんだ。どれくらいいたの?」
「これぐらいじゃのお」
 そういって少ない頭髪を握る。
「なんだ、そんなくらいかあ、じゃあ今とちっとも変わらないや」
「い、いやいや、これくらいじゃ……」
 そうして少ない髪の毛を握りながらジャンプしまくる。しかし年のせいか思うようにジャンプできないのである。
「なんだ、そんなものかあ」
「ぜいぜいぜい、なにをいう。もっともっとじゃ、せいの……」
 おじいちゃんは髪の毛を握り先程より更に思い切りジャンプする。
「ぜいぜいぜい、うっ……」
「おじいちゃん、おじいちゃん大丈夫! おじいちゃん」
 こんなことがあるから年寄りに数を数えさせてはいけないという部族の掟があるのかもしれない。
 こんな想像をしてしまうのである。
 だからどうだっていうのだ。こんな想像をしてしまっていったいどうだというのだ。わたしの人生にはちっとも関係ない。そして真偽すらわからない。そんな知識をもってしまってどうするのだろうか。
 どうでもよい知識はその人にもやもやとした不安感を与えるし、ちょっと困った想像をさせる。
 わたしの友人には腰痛持ちが二人いる。一人は仕事で業務用のプリンタを運ぼうとしてぎっくり腰になった。そしてもう一人の友人は小学生の頃に重いものをもってぎっくり腰になったそうだ。小学生なのにぎっくり腰だなんてどうかしている。そこでわたしは彼女に訊いてみた。
「小学生のときにね、重い箪笥を運ばされたの」
 それを聞いたわたしはこう思った。
「大川栄作じゃないのに箪笥を運ぶなんて」
 しかし今同じことを彼女から聞いたならばこう考えるだろう。
「大川市出身でもないくせに」
 ちょっとした知識は人を困った想像へ誘ってしまうのである。


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