其の32 それもひとつの見識だ


 これで地球滅亡まであと一年半ほどとなったわけだが、それはともかく今年は寅年である。十二年ぶりである。そんな特別な年であるが、誰も無関心である。やっぱり前回の寅年より十二年ぶりだというのだから、何か国民あげてひと月仕事禁止にするとかないものであろうか。ひとつ検討するのも良いかと思うがどうであろう。
 さてわたしの職場には、勿論同僚といったものがいるのだが、この同僚ただ者ではないのである。頭脳明晰であるばかりではなく、人当たりも良く、すれっからしで疑り深い人間であるわたしが見ても、まったく非というものが見つからない立派な御仁なのである。わたしが出会った人間の中では、車に轢かれそうになった子猫を救う為命を省みず飛び込んだ人間の次くらいに上等な人間であるかもしれない。同い年であるのだが、まったく尊敬に値する人物なのである。その同僚曰。
「昔、高校の頃、1+2=3なんですけど、それならば何故2+1も3になるのかということで悩んだんですよ」
 普通の人間ならば一笑に付されるだろう。わたしが言おうものならば、このすっとこどっこい、べらんめいこちとら江戸っ子でえ、とわけの解らない怒鳴られかたすらされるかもしれない。なんなら殴られる可能性すらある。しかし彼の場合は違うのである。彼は現在も学究の徒であり、それも数学科という得体の知れないものを専攻する研究室に在籍しているのだ。只の酔っぱらいの質問でもなければ熊さんが御隠居に訊ねている疑問でもない。彼の疑問は非常に高尚な数学的問題であり、わたしのような輩には到底理解できない問題なのである。非常に含蓄のある命題なのだ。
 あるときこの話を別の人物に如何に学問というのは面白いものかという説明の譬えとして語っていた。わたしは興味深く彼らの会話を聞いていた。もしかすると先の命題の解答を聞けるかもしれないという期待からである。
「それでな、1+ルート3イコール1+ルート3だろ。じゃあルート3+1は1+ルート3だ。それでは両者は等しいと言えるのか?」
「そんなの当たり前だよ、等しいに決まってる」
「確かに整数+整数はそういうことが言えるかもしれないが、整数+無理数の場合も言えるのだろうか。証明できるのか」
 ちなみに詰め寄られているのは中学三年生である。この時点では中学生とわたしとは全くの同じレベルである。まったく解らないのである。わたしは知っているような顔をして彼らの会話を聞いていた。
「1+ルート3イコールルート3+1が正しいことを証明できるか?」
 先の中学生はなまじ頭が良いだけに同僚の命題について当たり前だという解答が適切でないことを十二分に知っているのである。かなり困っている。証明できるのか? と言われてもなあ。わたしは同僚が如何にして中学生を真理の庭へと導くのかわくわくしながら眺めていた。ついでにわたしもそこへ連れていって貰いたいなどと都合の良いことを考えていた。
「わかる?」
 中学生は困り果てた揚げ句、あろうことか傍観していたわたしに話を振ってきたのである。さて困ったことになった。わたしは知っていることは知っているが、知らないことは知らないのだ。わたしは端正で知的な顔をしているだけに、相手が勝手に「この人は解っている」と誤解してしまうタイプの人間なのである。ついでに相手の話に同意しているように首肯くのも幼少の頃から長けており、その実、話の半分も聞いていないいい加減な人間でもある。
「わかる?」
 こういう場合はこのように逃げることにしている。
「食べたことないからなあ」
 これで大概の人は笑ってくれる。議論が熱気を帯びているときほど効果的である。中学生は笑った。しかしこの同僚はこう言ったのである。
「それもひとつの見識ですね」
 ちょっと待って欲しい。そういう返し方は反則なのではないか。ひとつの見識だと言われたわたしの立場はどうなるのか。確かに1+ルート3=ルート3+1が正しいということを見た事もなければ食べたこともない。その点わたしは間違ったことを言ったわけではないし、この命題に対する返答としても論理的には間違っていないのかもしれない。だからといってこの「食べたことない」という解答は「ひとつの見識」足り得るのか。見識とはそれほど安っぽいものなのか。ちなみに見識を広辞苑で調べると、
 
見識:(1)物事の本質を見通す、すぐれた判断力。また、ある物事についてのしっかりした考え、見方。識見。「―のある人」

とある。わたしの解答は物事の本質を見通したものでもなければ、しっかりとした考えでもなく、ただの逃げ口上である。しっかりとした考えがないからこそ、そう言ったに過ぎない。ただただ笑ってくれて逃げ出せれば良かったのである。
「それもひとつの見識ですね」そう言ったあと再び議論は元に戻った。彼らは熱心に先程の命題について語っている。わたしは煙草を喫いに部屋から出ていった。やはりあの返答は不味かったかもしれないが、それ以上に同僚の返しは反則だなあ、そう言いながら煙草を喫っていた。
「ちょっと、ちょっと」
 突然別の中学生がわたしの元に駆け寄ってきた。
「あ、ああ顎が、はずれ、そそう」
 勿論わたしはこう言った。
「それもひとつの見識だ」


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